昨年の R1 の大学受験に引き続き、今年は R2 の高校受験があった。 小学校、中学校とあまり勉強してこなかった R2 だが、 8月に部活を引退してからは勉強に集中し、(多少残念な部分もあったのだが) 見事志望校に合格した。秋からの半年はすごく頑張ったと思う。 もう入学式も終り、新入生の合宿にも行ってきた。 R2 はもともと感情がわかりやすいタイプだが、明らかに毎日が楽しそうである。 新しい友達、新しい部活(といってもまた吹奏楽部らしいが)、 新しい勉強といろいろなことに期待でいっぱいの R2 を見ているのは、 私にとっても実にうれしい。 受験勉強を頑張り切り、志望校に合格できたのは自信にもなったのだろう。 R2 も高校生となったということは、 あと3年で家を出る可能性が増したということでもある。 そうなると妻と二人だけになり、随分寂しくなりそうだ。
「胡桃沢梅」論
(無名な背景イジメを除いて)
基本的に「君に届け」の登場人物はいい人ばかりである。
それはくるみちゃんも例外ではない。
しかし、自覚的に策略(下心)を持って行動するという点でくるみちゃんは特異なキャラクターである。
そして「君に届け」の中で、唯一悲劇的な登場人物でもある。
くるみちゃんの悲劇は、風早が決して自分を好きにはならない、
と自覚している点にある。これは最終的で決定的な事実なのだ。
それを自覚しつつも風早が好きで、それゆえに「努力」している。
そしてその「努力」自体、
風早が嫌いなことだということも自覚しているのである。
おそらくは、くるみちゃんも中学時代はそんなタイプではなかったのだろう。
しかし、友達が自分を利用したり、陰口をたたいているのを知って、
彼女は変わってしまった。そこに爽子との決定的な違いがある。
爽子もまた、長い間、周囲から無視されたり避けられたりしてきたが、
彼女は変わらずピュアなままでいる。くるみちゃんにとって、
爽子は(そうあれたかも知れない)「もう一人の自分」なのだ。しかし、
くるみちゃんが爽子になるチャンスは永遠に失われてしまった。
くるみちゃんと爽子の対照は印象的だ。
くるみちゃんは明るく社交的で柔らかく、ふわふわなフランス人形だが、
爽子は暗く陰気で固く、呪いの噂がつきまとっているお菊人形だ。しかし、
外見と内面は大きく違っていた。くるみちゃんは次々に策略を繰り出す。
でもそれは「超正攻法」の爽子には通じない。
そして風早自体がくるみちゃんの計算を狂わせる。
くるみちゃんにとって、唯一の救いは、風早にちゃんと告白することができた、
ということだ。これはくるみちゃんにとって誇りであり、
「爽子ちゃん以外はみんな一緒」の、
その他の意地悪モッブ女子と自分との間の微妙な相違点である。しかし、
それは爽子がいたからこそ出来たことだった。
くるみちゃんは、ちょうど風早がそうであるように、
爽子が自分の目でまっすぐ自分を見てくれることに気づいたはずだ。
そして、そういう人は(風早のように)とても大切なはずなのだ。
だけどくるみちゃんと爽子は友達になることはできない。
くるみちゃんが爽子のことを「ライバル」と呼ぶのはどういう意味だろう。
得恋という意味ではくるみちゃんはその時点ですでに終わっているのに。
「鈍感」な爽子には分からなくても、
いつも風早を見ていたくるみちゃんにとっては「バレバレ」の明白な事柄、
それは、風早が爽子を好きだということだ。勝負は初めからついている。
しかし、くるみちゃんにとって、
自分が「ヘタレ」の爽子に負けたと認めることは出来ない。
「ライバル」発言は、くるみちゃんのプライドの表明であるとともに、
爽子に対する挑発でもある。くるみちゃんのただ一つの出口は、
爽子が「ヘタレ」でなくなること。
自分に負けを納得させる相手になることである。だがそれは結局、
爽子にちゃんと告白させることを促すことになってしまう。爽子の告白が、
自分の敗北をはっきりとさせてしまうのを知っていても。
R1 君の入試は(なぜか)成功裏に終り、志望校に合格して、
既に東京での新生活が始まった。親として嬉しくないわけではないのだが、
合格発表直後に起った東日本大震災で関東に住む親戚のことを心配したり、
原発事故の推移を見守ったり、いろいろ考えたり、
心を痛めたりしているうちに自粛モードになり、
お祝いもろくにしないまま引越しとなってしまった。
さらには入学式も取り止め (というか、大幅に規模を縮小) になり、
R1 だけでなく、
東京に住む義妹と一緒に出席するのを楽しみにしていた妻も、
だめになって可哀想な気がする。で、
ここで R1 の「秘話」を披露しつつ、地味に盛り上って、
祝ってやりたい。
今だから明かすR1君の受験秘話その1:
いろいろあるのだが、よく覚えているのは最近のこと。
センター入試の自己採点をしてる時である。
英語の採点をしているときは「おおーっ!」とか「やったーっ!」とか声を出していたのだが、
最後の物理の採点を始めると「あれ?」とか「んーっ!」とか変な声に変り、
最後には「。。。」と沈黙した。
どうもやらかしたらしいので、
「何点だった?」と聞くと「大丈夫だって!」とはぐらかす。
もう一度聞きなおして言わせたが、ワタクシも愕然。全科目中、
物理が最低点というのは、ワタクシとしては受け入れ難い。あり得ない。
それも、地理がどうしても点数が取れないから、
ということで秋から始めた現代社会の点数よりも10点以上も低いなんて!
思わず「文転しろ!」と言ったのでした。
今だから明かすR1君の受験秘話その2:
多分センターが終った翌日か翌々日のこと。
朝起きてくると、
「俺、友達と一緒に合格発表を見に行った夢を見た。」と R1 が言う。
さすがの R1 もセンターでの失敗にめげたのか、と思って続きを聞くと。
「なんかさあ、俺だけが合格っててさ、寂しかったなあ。」
「ええっ!?」
ワタクシはあいつのポジティブさには本当に敵わないのであります。
今だから明かすR1君の受験秘話その3:
前期日程の試験のため、前日に R1 は飛行機で移動。妻が空港まで送りに行く。
妻と R1 はタクシーに乗り、空港で降りるが、
運転手はぜんぜん千円札を持っていないと言って、
釣り銭を全部100円玉で返してきた。運転手はそのことに気を取られ、
二人が降りるとすぐに後ろのトランクに載せた荷物を降ろすのを忘れたまま走り出した。
妻はあわてて追いかけ、声を掛けるが運転手は気づかない。
タクシーはどんどん遠ざかる。呆然とする妻が振り返ると、
R1 はなぜかケータイで誰かに電話し、事情を説明している。
一体どこに電話しているのか。
実は R1 はタクシーの中に書いてあった配車センターの電話番号を覚えてしまっていて、
そこに連絡していたのだった。運転手の名前もフルネームで覚えていたらしい。
5分と待たずにタクシーは戻って来、運転手は謝るが、
妻は憤然として文句を言い始める。しかし、
R1 は「もういいじゃない、悪気があった訳じゃないんだから。」と言う。
R1 にそう言われては妻も怒ることも出来ない。
そんなクールな R1 を今まで見たことないぜ。
今だから明かすR1君の受験秘話その4:
高校も卒業式が近づき、図書館報が来た。
ワタクシは実はこれを恐れていたのだ。
3年生で貸出冊数が一番多いのはR1に違いない。それは判っていたことだ。
みんな勉強で忙しいんだよ。
受験生にあるまじき読書量のあいつに敵うものがいるとは思えない。
しかし、全校一位にだけはなってくれるな、
それはいくらなんでも恥かしいじゃないか。
しかし、ワタクシのこの恐れは現実のものとなり、
4月から11月末までの貸出冊数216冊で一位になっていた。
8ヶ月で216冊というのは、月に27冊だ。
あいつは他にも自分で本を買っていたし、友達からも借りていた。
ケータイ小説も読んでいたぞ。
何でそんなことが物理的にも倫理的にも可能なのか、
ワタクシには理解できないのであります。
いやはや、いつから更新していないのか分からないくらい久しぶり。 最近は色々あって、あまり本も読んでいない。少し前に、 「西洋古典学辞典」 (松原國師著、京都大学学術出版会) を購入して、 夜とかに暫し時を忘れて読み耽ることはあっても、 本を読むのは昨年に 「数の大航海 対数の誕生と広がり」 (志賀浩二著 日本評論社) を読んで以来、 「青空文庫」の岡本綺堂の半七捕物帳を iPhone で読む以外はなかった。 先日、たまたま図書館にあった 「マニ教」 (青木健著、講談社選書メチエ) を手にとり読んでみたが、これがとても面白かった。 私はマーニー教(こっちの方が原音に近いらしい)についてあまり知らなかったのだが、 マーニー・ハイイェーを教祖とする二元論的世界観を持つ宗教で、 3世紀に生れ、生れ故郷の西アジアだけでなく、 ヨーロッパや中国にまで広まった「第4の世界宗教」で、今は消滅したが、 16世紀ごろまで中国での活動が確認されている。 教祖マーニーは一種の天才で、独自のペシミスティックな神話を「創作」し、 完全な聖典のセットを著作し、また、絵画芸術にも非凡な才能を発揮した。 教義からすると、 グノーシス主義やゾロアスター教から影響を受けたように見えるが、 実際はエルカサイ教団というユダヤ・キリスト教系の新興教団が出自で、 マーニーはそれらから換骨奪胎して複雑な教義を作り上げたのだ。 マーニー教はゾロアスター教にとってもキリスト教にとっても異端思想で、 各地で迫害を受けた。確かに、同じ神が現れる神話でも役割が異なり、 「正統」側からするとイライラさせられる存在だったろう。 マーニー教についての研究は、 20世紀半ばにケルン・マーニー・コーデックスが発見されてから大きく展開し、 現在もこれからも劇的な発見があるかも知れない非常に新しい研究分野と感じた。 この本はマーニー教の研究史、マーニーの伝記、教義、 布教についてバランスよく、わかりやすく書かれた良書だ。 この宇宙が悪魔たちの牢獄として作られ、 人間は光の要素を閉じ込めておくために悪魔たちによって作られたとする、 ひどく絶望的な世界観が、多くの人を魅了したことはとても興味深い。 昔から興味があるグノーシス主義についても、また読みたくなった。
最近のワタクシのささやかな楽しみは、
Internet Archive
で著作権の切れた古い本を探索することである。
特に、19世紀末から20世紀初めのラテン語の教科書をダウンロードして、
まだラテン語教育が生き残っていた時代を感じて楽しんでいる。
そんな中で、たまたま、
コメニウスの
Orbis Sensualium Pictus
という本に出会った。私は知らなかったのだが、
コメニウス(J. A. Comenius, 1592-1670)というのは、
教育史上忘れられない業績を持つ有名人で、
彼こそが同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業の学校制度を、
構想した人物である。Orbis Sensualium Pictus
は世界で初めての子供のための絵本であり、図鑑である。
(「世界図絵」というタイトルで平凡社ライブラリーに井ノ口淳三による翻訳がある。)
彼は宗教人でもある。チェコのモラヴィア出身の彼は、
若いころ30年戦争に巻き込まれ、追放され、また妻子を失った。
彼は人類に絶望するが、次世代を担う青少年にのみ希望を見出す。彼らのみが、
神の御心に適うものであり、
彼らに学びつつ、彼らを正しく教育することが人類の救済の希望である。
コメニウスの教育学上の主著である
Didactica Magna
(「大教授学」 鈴木秀勇訳、明治図書)は非常におもしろい。彼はまず、
人間の究極の目的は、現世の外にある、というところから始める。
現世は、永遠の命への準備である。そして、教育はそのためにある。
これほどすっぱりと現世の価値を否定し、
同時に教育の価値を論じることができるのだから不思議なものだ。
彼によれば、教育すべきことは3つある。学識と徳行と敬神である。また、
富めると貧しいとを問わず、男女を問わず、能力の高低を問わず、
あらゆる青少年が教育されるべき対象となる。これもまた、
彼の教育の目的が永遠の命への準備であることから自明に導かれる事柄である。
また、教えられるべき内容は、普遍的なものであるべきことが述べられている。
さらに興味深いのは、彼の教育の「方法」である。
それは、彼の認識論に基づいた、経験主義的な実践的な方法論となっている。
彼は事物を優先し、感覚を重視する。生徒に強要するべきでなく、楽しく、
平易に、わずかな労力で敏速に成果をあげる方法を、
自然から学ぶことによって提案する。
彼が理想とするのは、印刷術のように、
人間を作り上げる自動機械としての教育システムである。
そのために教える順序と内容、つまりカリキュラムを整備する必要を強調する。
彼の出発点は、少なくとも私にとってはまるで意味をなさないが、
そこからコメニウスが導き出した教育に関する考えや方法は、
現在でも参考になる点が多い。
単なる教育学者という枠を超えた、もっと大きな存在である。
今まで何も知らなかった私が言うのも変だが、
もっと知られてよい人だろう。
数ヶ月前に自動車での通勤を止めてから、
読書の時間が飛躍的に増大した。
通勤時間は自動車のときに比べて長くなったのだが、あまり苦痛でない。
もうずいぶん前になるが、以前から読みたいと思っていたオウィディウスの
「悲しみの歌・黒海からの手紙」(西洋古典叢書、
木村建治訳)も読んだ。オウィデゥスは今からちょうど2000年前、
アウグストゥスの綱紀粛正のためのスケープゴートとして、
トミスという黒海のほとりの町に流されたのである。この本は、
トミスへ向かう途上から始まり、
アウグストゥスに許されてローマに帰ることを願いながら、
妻に、友人に送った書簡詩である。
ウェルギウスは既になく、ホラーティウスも去りつつあったとき、
オウィディウスはまさにローマ最大の詩人であった。
それが突然、ラテン語を解さない蛮族に囲まれ、
生命の危険を感じつつ晩年を孤独に送ることを余儀なくされたのだ。
彼のうめき声が聞こえてくるかのようだ。
アウグストゥスに媚び諂い、
友人に援助を哀願する手紙が延々と続くのを読むのは正直結構きつい。
しかし、
天性の詩人オウィディウスの「変身物語」とも「アルス・アマトリア」とも違う一面が、
書簡詩というまた違ったジャンルで発揮されるのを読むのは、
それなりに興味のあることである。彼はまさに、
これらの詩を書くことによって生きることができたのだろう。
思えばオウィディウスはなかなか多作な作家であり、
そのほとんどが2000年生き延び、読み継がれてきたことは、
驚くべきことである。「悲しみの歌」も「黒海からの手紙」も、
単に阿諛追従の文学としてのみ読まれてきたわけではないということだろう。
これほど個人的な生活を題材にし、感情を吐露した作品は古典文学では少ない。
それもまた、この作品の魅力の一つだろう。
結局、彼はローマに帰れないまま、トミスで没した。
今この町はコンスタンツァと呼ばれ、
オウィディウスの像が立っているのである。
物理教室の FD があって、九大物理の卒業生に来て頂き、
いろいろ話を伺う機会があった。
もともと FD というのは、教員の教育スキルの向上のために行われるものだが、
今回のは半ば就職説明会の様相で、
ワタクシとしては「なんだかなあ」だったのであるが、
結果として大変参考になった。
大学(院)で学んだことを直接使っていることはほとんどない、
ということを彼らは強調しているのだ。
企業に入って行う仕事は、ほとんど大学での勉強・研究とは関係ない。
実際、それに携わる人のほとんどが、もともとはシロウトなのだという。
『大学院で2年くらい○○やったぐらいで専門とかいうな』
と先輩にどやされた話も聞いた。
ここまでワタクシは、「まあ、そんなものかな」と、
ぼーっと聞いていて、その意味が本当は分かっていなかったのである。
それから懇親会になり、
ワタクシはそのうちの一人に『素粒子の理論とかをやっている学生は、
やはりメーカーへの就職はむずかしいのでしょうか』と聞いてみたのである。
というのも、
今まで実験系の先生にそんなふうなことを何度か言われたこともあり、
また学生にも、自分は将来企業で研究をしたいので、
大学院で素粒子論の研究室を選択しなかった、と言われたこともあったので、
素粒子出身では SE とかソフトウェア関係以外は難しいのかな、
という印象を持っていて、
そのことを一度企業の人から直接聞いてみたいと思っていたのである。
で、リクルーターでもあるその方は、
言下に『そんなことはまったくありません』と言った。
これは正直、ワタクシには驚きだったのである。
もともと、(メーカーを)希望してもらっていないのではないか、
というのがその方の感想である。
『素粒子って、優秀な学生が集まるあそこですよね』と。
(私が言ったのではない。)
そして、先ほどの講演で皆さんが強調していたことが何を意味するのかが、
ワタクシの鈍い頭にもやっとはっきりと分かってきたのである。
つまり、企業は大学院で何を専攻したかなんかはあまり気にしていない。
それは、
素粒子理論でももちろんオーケー
ということを意味する。
「何を」よりもむしろ「どうやって」を気にするのだろう。
どれほど真剣にその研究に取り組んだかの方が、企業にとっては重要なのだ。
では大学(院)で学んだことで、何が一体役に立ったか。
彼らによると、仮説を立てて研究を進め、
それを検証したり分析したりするような科学的な方法論、
徹夜してでもやるときはやること、
論文をまとめて結果を公表することも含めたプレゼン能力など、
非常に一般的な事柄で、
もちろん素粒子理論の研究においても普通に培われる能力だ。
で、結論として、ウワサを信じてはいけない。
R1 の身長は 180cm を軽く超え、 近くで話をする時は見上げなければならないという面白くない状況だ。 さらに家ではろくに勉強していないのに、なぜか成績は悪くないという、 実に面白くない状況である。 親心としては、もっと苦労してもらいたいのだが。
R2 は吹奏楽部に入部し、テナーサックスを吹くことになった。 連日遅くまで部活があり、土日もかなりの割合で出かけて行く。 部活は楽しそうだ。 勉強の方も頑張ってもらいたいのだけど、そっちの方はかなりお留守だ。
R2 も中学一年生となった。時の経つのは速いものである。 R2 は童顔で精神的にも幼いところがあるので、 黒い学生服を着て出かける姿を見ると、なんとなく可笑しくなってしまう。 それでも毎日勉強とか頑張っている様子。 ワタクシも応援しています。
最近岩波書店から復刊した「アナバシス」
(クセノポン著 松平千秋訳)を読んだ。
これは知る人ぞ知る(?)ノンフィクション文学(??)の傑作で、
以前から読みたいと思っていたのだが、
買いそびれているうちに絶版になっていたのだった。
紀元前401年、兄アルタクセルクセス2世の王位を簒奪すべく、
ギリシア傭兵1万数千をつれてバビロンに向かったキュロスであったが、
もう少しで勝利を手にする所で戦死する。ついて来た方は大変だ。
さらに、敵方の策にハマり、指揮官、隊長の多数を逮捕・処刑・斬殺され、
ギリシア傭兵軍はなす術もなく、破滅の時を待つのみであった。
しかしその時、従軍していた我らがクセノポン (正しくは クセノポーン)
は敢然と立ち上がり、
この事態を打破すべく行動を開始する。
2400年以上前のペルシア帝国内部の風俗など、非常に興味深い記述もあるが、
何といっても大軍団を抱え、
兵士の不満と敵との戦いを捌きながら、
逃避行を指揮することになったクセノポンがおもしろい。
論理的で行動力あふれる一面と、
すぐに犠牲式を行い、吉兆が出ないと行動しないとか、
現代ではちょっと理解しがたい非合理的な面とがあって、
それもまたおもしろい。おすすめ。
引き続き SC3 だが、 無線LANは使えても有線LANが使えないのは不便だと思って、 久しぶりにドライバダウンロードのページに行ったら、 新しいドライバが置いてあった。やったぜ。 で、readme どおりに作業すると、 何の苦労もなくインストール出来て、 あっという間にネットに繋がった。こうでなくっちゃねえ。 と、こんなにうまく行くことはあんまりないんだけど。
以前から興味のあった工人舎のミニノート (SC3) を最近購入した。 持ち歩くのに抵抗のないサイズと重量が魅力だが、 如何せん Windows Vista はこのスペックでは重すぎ、 非常にイライラする。ただでさえ、Windows を使いたくないのに。 というわけで、Linux 化することを考えていた。 希望としては USB フラッシュメモリに Linux を入れておいて、 サクッと立ち上げ、本体の Windows はいじらない、 というのをしたかったのだが、まあ、 立ち上がることは立ち上がるのだけど、 LAN を自動認識してくれない状況ではなかなか辛いものがある。 それでも無線 LAN ドライバは Ubuntu 8.10 上でコンパイル出来たので、 ちょっとの間使っていたのだけど、 Ubuntu Tips に USB フラッシュメモリはあんまりアップデートするなとか書かれており、 さらには立ち上がるのが意外に遅いという問題もあった。 そこで、やはり Windows をいじらないで dual boot にできる Wubi なるものを使って HD に入れてやろうと思い立った。 調べた限りでは Wubi はお手軽だが、どの程度使えるのか不明、という感じ。 しかし、実際に導入してみるとえらく簡単で、 使った感じもそれほどひどくない。 しばらくこれでやってみて、まだ不満なら普通の dual boot にしよう。
今年のオーバーナイトハイク(50キロ)と100キロメートルハイクが終わった。 R1、R2 ともにオーバーナイトハイクは完歩。 R1 は完歩した日に将棋の試合があるとかで、 1時間ほど寝た後で足を引きずって出かけて行った。 実は昨年の100キロメートルハイクをリタイアした R1 は、 その後ずっと「絶対やらない」と言い続けてきた。 R1 によると、50キロと100キロは「次元が違う」ということだ。 それでも最終的に参加することを決意し、 100キロメートルハイクも見事に完歩したのは素晴らしいと思います。 足の裏に直径3cmくらいの水脹れを作り、足を引きずりながらのゴールだった。 翌日の月曜日、学校サボったのは大目に見てやるよ。
Ubuntu の標準ブラウザは firefox 3 である。ちょっと気になって、 最近のブラウザのシェアを調べてみて、大いに驚いた。 Net Applications という所の調査によると、 firefox の 2007年7月におけるシェアは 14.45% であったのが、 1年後の 2008年7月には 19.22% になっている。 1年間でシェアが 5% も増大するというのは凄い。 かつて「第一次ブラウザ戦争」で、 マイクロソフトは当時(1996年) 90% 以上のシェアを持っていた(っていうか、 他にあまり選択肢がなかった) Netscape Navigator からそのシェアの大半を奪い、2002 〜 2004年には IE のシェアは 90% を越えていた。 それが現在は 73.02% にまで落ち込んでいる。 (統計は調査の仕方によってかなり大きなぶれを見せている。 firefox のシェアを 30% 近くに、あるいは 40% 以上に評価する所もある。) この期間にマイクロソフトも IE7 の投入 (英語版は 2006年11月1日から自動更新により配布) を行っているのだが、firefox の勢いには勝てないというところだろう。 マイクロソフトは 2008年3月にベータ版を発表したIE8 のベータ2を、 2008年8月に発表する予定らしい。firefox 3 がかなり良い (JavaScript 関連が特に良い。 Acid2合格、 Acid3も合格。) ので、IE8 があっと驚くような良さを見せない限り、 シェアを firefox に持って行かれるだろう。 (ベータでのベンチマークの結果を見ると、firefox の方が格段に良い。 ベンチマークを見て分かるもう一つの事は、IE7 はひどすぎたということ。) これから「第二次ブラウザ戦争」がどうなるか楽しみだ。
最近、家のパソコンを新しくした。 今まで使っていたのはひきだしから見つけた注文書からみると、 およそ7年前のものである。メモリを買い足したり、 壊れたハードディスクを買い換えたりとごまかしごまかしよく使ってきたものだ。 で、またもや BTO のパソコンを注文し、今まで長く使い続けてきた Vine Linux とも別れを告げて、Ubuntu をインストールした。 以前、他のディストリビューションに乗り換えようとして、 随分苦労した覚えがある(それだけ Vine は良かった)ので、 かなり覚悟していたのだが、 Ubuntu には非常にスムーズに移行できて快適である。
Google Trends というサービスがある。 ある単語が Google でどれだけ検索されているかをグラフで見ることができる。 全世界で、あるいは国を指定して検索できるので、いろいろ面白い。 これを使ったのは、最近の Linux distribution の傾向を知りたかったからだ。 現在、世界的に Ubuntu が非常に注目されていることが分かる。 この傾向は2年以上前から顕著になっている。 しかし、日本に限定して検索すると、確かに最近一番注目されているが、 頭ひとつ出たのはここ1年弱のことだ。Fedora がまだしぶとい。 アメリカでも既に2年ほど前から Ubuntu が圧倒的である。 SUSE のお膝元のドイツでも、随分前から Ubuntu が SUSE を抑えている。 日本と似たように混戦模様なのがインドである。 それでも Ubuntu が一番である。 Linux の世界では、Ubuntu がほぼ「世界制覇」した形だ。 (北朝鮮のデータはとれませんでした。あたりまえかな。) しかし、Vista と比べると、全世界でも Ubuntu は Vista 1.00 に対して 0.32 程度、日本に至っては 0.15 程度である。(All years の数字。) Windows の天下はまだしばらく揺るぎそうもない。 しかし、日本の 0.15 というのは極端に低い数字だ。 アメリカでさえ 0.24 である。(フランスは 0.50、チェコとイタリアは 0.54、 韓国は 0.58、スペインは 0.60、スウェーデンは 0.62、インドネシアと ノルウェーは 0.66 である。こう見ると、ヨーロッパではかなり高い。 フィンランドではなんと 1.04 とほぼ拮抗している。) あと1、2年して、これがどう変っているかが楽しみである。
昨日、R2が高熱を発した。暑い中、午前中外に出ていたので、
熱中症になったのかと思い、首筋などを冷やしていたが、一向に良くならない。
だるそうである。風邪なのかも知れないなどと思ったりもしたが、
顔を良く見てみると水疱がいくつか見える。「こりゃ風邪じゃない。
水疱瘡だ。」それから、翌朝病院に連れていくか、
救急センター(休日なので)を検討。
結局、百道浜にある福岡市急患診療センターに連れていく。夜の9時である。
恐ろしく混んでいる。
受付手続きをして小児科の窓口に行くと「現在2時間半待ち」の表示。
周りには具合いの悪そうな子どもを抱えた人がひしめいている。
休日診療をしているところは他にもあるが、すべて午後4時半まで。
夜間はここしかない。
そもそも、R2は今まで何度も友だちが水疱瘡になったとき、
一緒に遊ばせて感染させようとしたが感染らなかったという経歴の持ち主で、
結局、予防接種もしないままにしていた。
水疱瘡だからといって大騒ぎすることはなかったのだが、
妻がネットで感染初期に抗ウイルス剤を投与すると発熱と発疹が抑えられる、
治りも早い、という情報を見つけ、それならばということで、
夜の救急センターに急いだ次第。
結局、診察を受けたのは12時を回ってからだった。
医師に抗ウイルス剤の話をすると、
特に理由がなければかゆみ止めだけでよい、という感じ。
救急センターであることもあり、
薬は2日分しか出せない。
(ということはまた別の医者に行って診てもらう必要がある。
水疱瘡は感染力が強いので、あまり外出させるべきではない。)
などなど、いろいろ考慮した結果、
例の白いどろっとしたかゆみ止め
(カチリ(フェノール亜鉛華リニメント)というらしい)
と解熱剤をもらって帰ってきた。家に帰りついたのは1時過ぎ。
帰宅直前に車の中でR2が嘔吐するというおまけつきで、散々な夜であった。
ここんところ、漢文関係の本をだらだら読んでいる。 高校時代、漢文なんてろくに勉強しなかったので、かなり新鮮である。 漢文は日本文学の中でも重要な位置を占めていると思うのだが、 日本文学史的には非常に扱いが小さいように思う。 日本では、伝統的に教養ある人は漢文で書くのが default であった。 そういう意味で、ヨーロッパにおけるラテン語と良く似ている。 明治あたりまで保たれていた漢文に対する教養が、 現在ではほとんど失われてしまったのは寂しい。
原田家的には昨年度最大のイベントであったR1君の入試は、
無事志望校合格ということで決着した。まあ、めでたしめでたしである。
以前からすごいと思っているのは、福岡県の公立高校の定員が、
中学校卒業生数に対して極めて少ないことである。18年度の数字を見ると、
中学校卒業生数に対する県立高校の募集定員は 66.8% である。これは農業科、
商業科、工業科など、あらゆるものを入れた数字で、普通科に限れば 46.4%
にすぎない。大雑把に言って、クラスの半分は県立高校には行かない、
行けないということである。 これはかなりすごい数字だと思うのだが。
図書館から「エリザベス朝演劇集」 (小津次郎・小田島雄志編 筑摩書房)を借りて、その中にあった クリストファ・マーロウの「フォースタス博士の悲劇」(平井正穂訳)を読んだ。 いわゆるファウスト伝説に基づく劇である。 マーロウはシェイクスピアと同じ年の生まれ。こいつが結構面白い奴で、 貧しい靴屋の子として生まれながら、 奨学金を得てケンブリッジ大学を卒業するのだが、 学生時代にスパイとして活躍していたという噂があったり、 無神論者だと思われていたり、どうも同性愛者らしかったり、 挙げ句の果てに酒場で喧嘩をして29歳で命を落としてしまうという、 典型的な太く短い人生を送るのだ。 肖像画が残っているが、なかなかいい面構えの洒落者という風情。 マーロウはシェイクスピア以前のエリザベス朝演劇を代表する劇作家のひとりで、 特にブランクヴァースによる力強いセリフを創始(発見?)し、 後にブランクヴァースの達人となるシェイクスピアに多大な影響を与えたのである。 で、この「フォースタス博士」だが、 ゲーテの「ファウスト」とは違ってグレートヒェンもいなければ、 事業の達成に生きがいを感じることもなく、 契約した二十四年間をメフィストフィリスを使っておもしろ楽しく過ごした末に、 永遠の幸福を失ってしまった後悔に苛まれ、 身も心も引き裂かれて死んでしまうのである。 ゲーテの「ファウスト」に比べれば、単純といえば単純だが、 その分、死を目前にして深い後悔に苦しみ絶叫するフォースタス博士の姿が、 なんの救いもないままに実にストレートに浮かんでくるのであります。
R2の夏休みの宿題の作文がベネッセが主催する 作文コンクール に入賞し、 妻とR2と二人で東京まで授賞式に行ってきました。 二人分の航空運賃と賞品の図書カード(5000円分)は全く釣り合いませんが、 まあ、そう何度もあることじゃないし。 それにしても、R2の運の強さには恐ろしいものがあります。
ふと、背比べをしたらR1に負けていた。 中学生のうちに抜かれるとは思わなかった。 R1はうれしそうである。
残念ながら、R1は100キロハイクをリタイアしてしまった。 肉体的な問題よりも、精神的な弱さを露呈してしまったというのが、 私の感想。かなり後悔していたが、終わってしまったことは変えられない。 来年雪辱するしかないですね。
今年度のオーバーナイトハイクは、二人とも完歩でした。 R1は100キロハイクの予行演習として順調に歩き終わり、 2時間ほど寝た後、塾で夕方まで講習を受けました。 初挑戦のR2は、とてもつらい時間帯もあったけれども耐え抜き、 見事完歩してゴールでうどんを2杯平らげるという伝説を作りました。
R1君はこの夏休みに 菊スカウト章 を獲得した。これはボーイスカウトの最高位である。 幼稚園の年長の時からずっと続けてボーイスカウト活動をしてきた総決算でもある。 良く頑張りました。秋からは「ベンチャースカウト」に上進する。 身長も私とほぼ並んだ。
漢詩に興味を持ち始めた、というと唐突に聞こえるかも知れないが、
それなりに理由がある。
(1) 最近ラテン語の詩を読んでいて、わが国の韻文詩に興味を持ち始めた。
これを書いたときには、
故意に(?)漢詩の存在を無視していたのだ、と感じるようになった。
漢詩は確かに中国の詩であるが、日本においても非常に重要な役割を果たした。
「歌]といえば和歌であり、「詩]といえば漢詩であるのは常識である。
それなのに、無知のせいもあって、詩としていわゆる新体詩のことしか頭に置かず、
それゆえ五音・七音からなる韻律のことしか書かなかった。
(2)「狂雲集」が読めなかったことはこの辺に書いた。
読めないのは一休の伝記的事実と、禅文化について無知なせいだ、
と考えていたが、もちろんそればかりではない。一休は詩人であり、
「狂雲集」は詩集なのだ。
五山文学、
さらに広い意味での漢文学という「常識」があってはじめて理解されるものだろう。
(3) 理系なので(?)漢詩については極めてしょぼい知識しか持っていなかったのだが、
近体詩
にある平仄の規則を知るに至って、
漢詩の韻律詩としての形式が分かり始めた。
脚韻すること、対句をなすことぐらいは知っていたと思うのだが、
平仄の正確な規則を私は最近になって初めて知った。
複雑な平仄の規則に従いながら、美しい詩を書くのは実に至難の業である。
それを知って初めて漢詩人の偉大さを理解し始めた。
(4) 漢詩は遠い過去のものではなく、日本において近代に夏目漱石、河上肇という、
すぐれた漢詩人を持ったことを知って、興味を覚えた。かつ、
二人の詩人的天稟はさておき、その天稟を支えた漢文的素養について考えた。
まあ、何かと忙しいので、あまり理解は進まないと思います。
「道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・ 岸本水府とその時代」 (田辺聖子著 中公文庫)読了。 田辺聖子の本は今までほとんど読んだことがない。少し前に 「武玉川・とくとく清水 -- 古川柳の世界」 (岩波新書)を読んだ。 古川柳にはこの辺で興味を持ったのだが、 近代の川柳については全く無知のままでした。 (「武玉川」は正しくは川柳ではなく、俳諧です。) 岸本水府というのは、近代川柳の大御所であるが、 無知な私はこの本を読むまでそれを知らなかったのである。 しかし、無知は私だけではあるまい。 川柳について皆どれほどのことを知っているだろうか。 川柳大好きおばちゃんである田辺聖子は、 なんとしても川柳の良さを分かってもらいたいという、 強い情熱を持ってこの大作を書き上げた。その熱気が伝わる好著である。 岸本水府だけではない。川柳に情熱を傾ける人々の人生、喜び、苦しみ、 悩み、出会い、別れを、数多くの川柳の名吟とともに書き綴っている。 そしてその時代。大正、昭和、戦争、戦後。人々の暮らしに密着した川柳は、 その時々の人々の感情を切取り、美しく結晶させる。 文庫で3冊ある長い作品だが、川柳の魅力にとらえられたまま読了した。
もうかなり前から左肩が痛い。 しばらく前に医者に行ったら「四十肩」であると診断された。 (「五十肩」と言われなかったのがせめてもの慰み? 違いはわからないけど。)まだしばらくかかる、と言われたが、 まさしく全く良くならない。以前には右肩から腕にかけて痺れがあって、 これにも悩まされたが、いつの間にか直ってしまった。 多分、この「四十肩」もそんなふうに直るのだろうけど、 とにかく今は困ったものだ。 痛くて寝返りも自由にできず、夜中に目が覚めることもある。 年は取りたくないものだ。 何と言っても愚痴っぽくなるのが嫌だね。
新学期である。一年が経つのは速いものだ。 今年度は実にたいへんそうである。新しい講義の準備もあるし、 研究もやらなきゃいけないこと山積みだし、 雑用系もうんざりするほどありそうだ。 結構憂鬱な春である。
「一休」 (水上勉著 中公文庫)読了。
これは「評伝」なんだそうである。
「評伝」を辞書で引くと(人物評をまじえた伝記)とある。
一休というのは「一休さん」の一休宗純のことである。
実はかなり前に
「一休宗純 狂雲集」
(柳田聖山訳 中公クラシックス)
を購入し、
読もうと思ったのだが良くわからなくてやめてしまったという経緯がある。
良くわからないのは、
題材となっている一休の伝記的事実と、禅文化、
歴史に私自身全く無知だったということによる。
例えば大灯国師の伝記を知らなければ
「風さん(夕食 を一字にしたような字)水宿、人の記すなし」
と一休が嘆いても何のことかわからないと言った類いだ。
そこでとにかく、一休の周辺のことを知る必要があると思って、
読み易そうな本を探して行き当たったのが水上の「一休」である。
水上勉の本は今まで読んだことはなかったが、名前ぐらいは知っていた。
しかし、この「一休」というのが実にへんてこな本なのである。
なにしろ室町末期の禅僧の話なのだから、史料に乏しいのは仕方ない、
それを想像力で補っていくのは理解できる。しかし、
どこからともなく戯作者清太夫著「一休和尚行実譜」なる珍重本を取り出し、
専門の学者の説もそっちのけでこの「行実譜」の記述にある一休の姿に、
一番「人間一休」を感じるというような話をしていく。
実に怪しげだと思っていたら、案の定、解説の中野孝次を読むと、
「文中の『行実譜』はむろん作者の制作に係るもので、
水上勉はおそらくこれを巻「二十五」
の森侍者と一休との肉体と心の消息を内側から伝えるのを第一の目的として、
作ったのであろう。内容はさまざまな一休伝承をふくんでいようが、
「二十五」の綿々たる女心の世界は、
まさに水上文学のあの秘めやかなる花にほかならない。」とある。
つまり、
「狂雲集」に描かれている盲目の女である森侍者との赤裸々な情愛の記述を
「事実」として色付けするために水上は創作していたのである。
これが文学ならば、ワタクシはそんなものは要らない。
これは想像力というよりも妄想であろう。
そして妄想は評伝ではないだろう。
昨日は節分である。私も妻も関東の出身なので、 恵方巻を食べると言う習慣はないのだが、 最近はどうも全国的に行なわれるようになってきているらしい。 それはそれとして、原田家は4本の太巻きを買い込み、 北北西の方角を見ながら一家4人でもぐもぐ食べた。 喋らずに食べるのが正しいらしいのだが、 私は子どもに「こぼすな」とか「北北西はこっち」とか注意をしていて、 どうも運を逃がしたようである。 妻はさすがに一言も喋らずに食べていた。
ラテン語の初等文法の勉強も一通り終わり、 以前から興味のあったラテン語詩を少しずつ読んでいる。 ラテン語の詩には音節の長短に基づく極めてはっきりとした韻律のルールがある。 これはギリシアの詩から受け継がれたもので、 ホメーロス(それ以前)からの伝統である。そして、 例えば英語の詩には、 やはり同様の(しかし強弱アクセントに基づく)韻律がある。 一方日本語では、韻律はあるにはあるが、 五・七音の音節数にのみに基づく韻律が基本であり、 特に現在では「詩」といっても、韻文詩は少ないので、 散文と区別することが難しい。 しかも、韻文詩は(かつては連歌のような長いものもあったが、) いわゆる短歌、俳諧、俳句のような短いものが主流なのでギリシア、 ローマの長大な詩は想像しがたい。 つまり、日本語では「詩」は韻律からかけ離れてしまっていて、 かつ長い韻文詩は極めて稀だということである。 これはラテン語詩から(だけでなく、英語の詩からも)すると、 全く異常だろう。まず、それが「詩」であるためには、 韻律のルールに従っていることが大前提なのだ。 こういうことが分かってくると、 詩の翻訳というのは、 せいぜい芝居の台本くらいの意味しかないことがいよいよはっきりしてきて、 無理でもなんでも、やはり詩はその原語で読まねばわからない、 という考えに到達した。 ちょっとわかるのが遅かったかしら。
最近は何を調べるのもまずインターネットである。 google に入力して、それらしいのを開けば、大抵の情報は手にはいる。 Wikipediaというのがあって、 検索をすると必ずといって良いほどこのサイトのページが含まれている。 項目によって、(不必要に)詳しかったり、まるで情報が含まれていない、 という不満はあるが、ワタクシは結構便利に使っている。 Wikipedia には各国語のバージョンがある。今日調べたところ、 最も充実しているのは英語版で、項目数は159万を越えている。 日本語版は31万強で現在第5位だ。まあ、項目数だけでなく、 記事の内容面での充実度も英語版には大きく水をあけられていると思う。 面白いのはラテン語版 が1万1千項目を越え、現在55位にあることだ。 「死語」と簡単には片付けられない、ラテン語の重要性の一端でしょうか。
「神、この人間的なもの
-- 宗教をめぐる精神科医の対話 --」
(なだいなだ著 岩波新書)読了。すこし前に
「アルコール問答」(岩波新書)という、
アルコール中毒の本を読んだ。(なだいなだはアルコール中毒の専門家である。)
遥か昔、
「片目の哲学」なんてのも読んだはずだが、
内容はすっかり忘れた。
この本は精神科医の観点から、精神史を切り捌いたものだ、と言える。
特に、宗教と(様々な)狂気の問題が取り上げられる。
突然訪ねてきた旧友との対話と言う形で話が進む。
イエス、ブッダ、ムハンマドはいずれも集団精神療法家であった、
という話から、彼らの試みが結局は後退してしまったこと、
国家も宗教、科学も宗教、民族も宗教、ついでに精神医療も宗教だ、
ということが語られる。
まあ、大風呂敷ではあるが、私には違和感がなかった。
大昔にユンクとか読んでいたとき、
宗教が精神医療に果してきた役割には気付いていたので。
先日、
ボーイスカウトのオーバーナイトハイクが行なわれた。
オーバーナイトハイクというのは、ボーイ隊は50km、
カブ隊の熊スカウトは30kmの距離を夜通し歩くというイベントである。
R1は30kmも、50kmは3回も既に完歩しているが、
熊スカウトのR2は今年30kmに初挑戦であった。R1は今回は班長として、
班員のペースを見ながら全員完歩させるという役割がある。
このオーバーナイトハイクは、指導者の人も、保護者も、
一晩中ほぼ徹夜状態で対応するという、大変なイベントであるが、
それだけの意義のある、重要な「通過儀礼」の役割を果たしている。
特に小学4年生が夜8時から朝の4時頃まで、30kmをひたすら歩き続ける、
というのはなかなか辛いものだ。はじめは元気いっぱいだったR2も、
最後は足が痛くなって歩けなくなり、何度も座り込んだそうである。
それでも、一緒に歩いている仲間に励まされ、
指導者や保護者の人たちの眼差しに見守られながら、
完歩することができた。この、
大変だったが成し遂げた、
という経験は子どもの精神を格段に発達させ、大きな自信を生み出す。
R1は班員全員を完歩させ、班長としての役割を全うした。
二人ともよくやったと思います。
で、来年はR1はベンチャー隊になり100km、
R2はボーイ隊になり50kmにグレードアップする。
100kmは想像するだけで恐ろしい距離だ。
先輩には6年連続100km完歩を成し遂げたという「鉄人」もいる。
来年が楽しみだ。
先日、妻はR2を連れて
子ども劇場
の落語を見に行った。R2は「芸人殺し」である。つまり、
ちょっとしたことにもゲラゲラと大ウケしてしまうのである。
以前、やはり子ども劇場で落語があったとき、私が連れていったのだが、
あまりに受けすぎて、
周りの人に迷惑にならないように押さえ付けなければならなかったほどだ。
で、今回もバカウケで、ずっと笑い通しだったのだが、突然、
笑うのをやめたと思ったら、パンツの中に手を入れたそうである。
妻が「大丈夫?」と聞いたら、「だいじょうぶ」と答えたそうだが、
妻も私も、ちょっとヤバかったのではと疑っている。
R2くん、笑い過ぎは体に毒だよ。
妻によると、始終バカウケだったR2は、
多分高座からも注目されていたのではないか、ということだった。
(席も近かったらしい。)
突然笑いが止った「芸人殺し」が股間を確かめている姿を高座から見たら、
さすがの噺家もひやっとしたのではないだろうか。
R1の今年の夏休みは充実していました。ボーイスカウトの 第14回日本ジャンボリー に参加したし、また剣道の昇級審査で初段に合格した。 これは立派だと私も思っています。が、問題はその後の過ごし方だ。 結局、残りの夏休みをだらだらと過ごし (R1にとっては大変充実した過ごし方だ)、 最後に宿題の山をいい加減に終わらせて、妻の胃壁を傷だらけにした。 夏休み直後の実力テストにも、余裕(つまり、何もしない)で対応。 あの自信過剰はどこから来るのか小心者の父には理解できません。 まあ、結果が楽しみだね。
「多情多恨」 (尾崎紅葉著 岩波文庫)読了。
しばらく前に「金色夜叉」を読みました。尾崎紅葉はそれ以来です。
実はこの半年ほど、ギリシャ・ローマ関係の本を読んでいました。
「イリアス」 (ホメロス著 松平千秋訳 岩波文庫)
も初めて読みましたし、以前から読んでみたかった
「クオ・ワディス」 (シェンキェーヴィチ著
木村彰一訳 岩波文庫)も読みました。
これらについてもいろいろ言いたいことはありますが、
黙っときましょう。
で、「多情多恨」である。これが思いっ切りしょうもない話であった。
主人公の鷲見柳之助は最愛の妻のお類を失ってから、鬱々として暮す。
いつまでもお類のことを思い返しては涙にくれ、何も手につかない。
柳之助の兄貴分である葉山誠哉は見るに見かねて、所帯をたたみ、
自分のところに来て暮らすように勧める。
柳之助にとってはお類の里の母親が、
妹を後に据えようとしていることも煩わしく、願ってもないことであるが、
実は葉山の妻のお種のことが顔を見るのも疎ましいほど嫌いだという問題があった。
が、葉山の勧めもあり、同居するようになるが、
そのうちお種に対して好感情を抱くにいたり、反って葉山の父親の心配を買い、
近くの高級下宿に引っ越すという筋である。
この柳之助のしょーも無さ加減は尋常ではない。世間ずれしていない、
純情一途な男として描こうとしているのだが、当時の読者はどうか知らんが、
少なくとも私には我慢ができないバカである。最愛の妻を失って、
いつまでも嘆き悲しむのはまだいい。しかし、
引っ越しの算段一つ出来ずにすべて葉山に任せ切りでいたり、
いくらその気はなくても、
葉山の留守にお種の寝間に夜中入っていくというのは非常識すぎる。
(それで大学の先生をしている、というのも、ワタクシ的には面白くない。)
解説の丸谷才一は、紅葉が「源氏物語」に学び、
特に桐壷帝の嘆きを写したのだとする。確かにそれはあるだろうが、
桐壷を明治にやって何が面白いのか。それに当時は「源氏物語」自体、
読む人が少なかったと言っているのだから、
「本歌取り」的な楽しみもないのだ。
で、結論としては、紅葉は「喜劇」を書きたかったのだというところに落ち着いた。
丸谷才一の解説も、「源氏物語」では切りきれないと見てか、
途中から『異質な要素』のすばらしい働きを見逃してはならない、
と述べてこのことに注意する。結局、いろいろ言えばどれか当たるからね。
私としては、万事弁えた葉山の存在に魅力を感じる。バカの弟分の難題を、
見事な手捌きで解決していく、って訳だが、紅葉先生手抜きをして、
この手捌きの見事さをまるで書かないんだよな。その辺の詰めの甘さもあって、
駄作、と断定させて頂きます。
私は常々妻に「R2が年頃になったら、 きっと自慢で自慢でしょうがないほどカッコよくなるぞ。」と言っていたのですが、 つい最近、R2は一体誰に似ているのだろう、とシゲシゲと顔を見ていたら、 「おでんくん」 に似ていると気付いてしまった。 そして自分の予言に自信を失いつつ、妻にこの「発見」のことを話すと、妻は 私は「だいこん先生」に似ていると言い、自分は「たまごちゃん」だと言う。 残念ながら、私の深い苦悩を妻は共有してはくれないようだ。
ドイツワールドカップで、日本の1次リーグ敗退が決まりました。 残念です。まあ、数回前まで予選で敗退していたのだから、 贅沢を言ってはいけないのかも知れませんが、残念です。 私はワールドカップは「文化的な」戦争だと思っているので、 勝ち進めば単純に嬉しいし、負ければ悲しいです。 セネカの言葉に Nemo patriam quia magna est amat, sed quia sua. というのがあります。「誰も偉大だから祖国を愛するのではなく、 自分のもの(国)だから愛するのである。」という意味です。 日本のサッカーが弱いから応援しないと言うようなことを言うヤツがいるが、 そういうのは分かっていないんじゃないか、と私は思っています。
もうずいぶん前からホームページを作り直さなければと思いつつ、 やる気のないまま過ごしてきましたが、 なぜか数日前に突然やる気になって、作りました。 作り「直す」じゃなくて、もうゼロから作りましたね。
「陰陽師」 (岡野玲子作 白泉社)が13巻をもって完結しました。 13年にわたりこの作品を作り、完成させた岡野玲子に心からおめでとうと言いたい。 この作品は日本のマンガの歴史に残るすばらしいものだと思う。 この仕事に長期間没頭できた岡野は、大変幸運である。実に羨ましい。 「陰陽師」では、既に2001年度の手塚治虫文化賞を受賞しているが、 完結によって、また賞を受賞するだろう。
いやはや。久しぶりに大酒をくらい、醜態を演じてしまいました。 で、翌朝あやうく「反省」するところでしたが、むしろ 本来の自分 に帰っただけだと気が付きまして、「反省」しないで済みました。 しばらくお酒を飲んでいないと、 何か自分がクールでクレバーな人間のように錯覚しがちでいけませんね。
「千石先生の動物ウォッチング」 (千石正一著 岩波ジュニア選書) 読了。 千石先生は良くテレビにも出演されているので有名。 この本は、元々いろいろなところに書いた記事を集めたものだが、 どれもわかりやすく、楽しんで読める。豊富なカラー写真が魅力だ。 この岩波ジュニア選書というシリーズは、 たぶん高校生がメインターゲットだとおもうが、 「大人」も十分楽しめる内容だ。 それにしても、世の中には変った動物がいるものだ。
大昔、ラテン語の勉強をしたことがあった。 無駄なことをしたがるのは、昔からの癖で、未だになおらない。 半年ほど前、「ラテン語 ML」の存在を知って、 実は密かにラテン語の勉強を再開した。いやあ、全く忘れてますね。 感動したのは、昔勉強したときと、今との環境の差だ。 昔は洋書を買うのも大変で、元々高かったし、紀伊國屋とか、 神田の古本屋街に行かないとなかなか買えなかった。 (どんな本かわからずに注文する勇気はなかったし、それに船便だったしね。) 今は amazon.co.jp でクリックして、1週間ぐらいで手元に届くもんね。 さらに、インターネットでいろいろな情報を集められるのもすごい。 上述の「ML」だって、すごい分量のメールが流れて、 いろいろな人がラテン語勉強しているのがわかって刺激になる。 さらにすごいのはネット上のテキストだ。 The Latin Library ではキケローとか、ウェルギリウス、オウィディウスのような定番だけでなく、 キリスト教関係とか、中世のものとか、 デカルトやスピノザなんてのも置いてあって、そそられます。 The Perseus Digital Library なんかすごくて、特に現在テスト中の version 4.0 は感動ものだ。 例えばカエサルの「ガリア戦記」のラテン語を読みながら、 英語の訳を参照でき、さらに単語をクリックすると、 その単語の使用頻度統計が示され、 Lewis & Short の辞書を引くことができる。さらには Greenough, D'Oodge, and Daniell の注釈も参照できてしまう。もう最高。 あんまり世の中が良くなったと思うことは無いのだけれど、 これは明らかに良くなっています。 Perseus Project とか見てると、インターネット文化が成熟しつつあるな、 という感じをうける。これだけのものをつくるのは大変だが、 それによって利益を受ける人は非常に多い。 残念ながら日本ではこうした取り組みが極めて遅れているという印象を持つ。 たとえば日本が誇る「源氏物語」については 源氏物語の世界 のようなものが個人レベルで作られているが、Perseus Project と比べるとおもいっきり見劣りする。 (これを作られた方の努力には敬意を表しています。)
「ひらひら」亡き後、 どこかのお祭りか何かの金魚すくいで一匹もらってきた金魚を、 R2は「すいすい」という名前をつけて育てている。 どうせ長くはないだろう、というこちらの見通しをおもいっきり裏切り、 とても大きくなった。はっきり言って、かなり太っている、 という感じだ。妻は気持ち悪がっている。 ワタクシは「すいすい」のことを密かに「ぶくぶく」と呼んでいる。
R2はこの秋にビーバースカウトからカブスカウトに上進し、 R1は2度目の50キロオーバーナイトハイクを完歩した。 立派なものだよ。
R2の「ひらひら」は、その後数奇な運命をたどった。知らなかったのだが、
ハゼは淡水でも生きていられるらしい、ということがわかり、
丁度水も汚れていたので、清浄水に入れ替えて飼っていた。
さらにやはり翌週のビーバースカウトの活動で「田植え」をしたR2は、
田んぼにいたおたまじゃくしを数匹捕まえて飼いたいと主張。
おたまじゃくしを飼うことは以前からの希望なので、まあ、
仕方ないということで、小さな安物の水槽を買って、
それに入れて飼うことになった。そこであろうことか、
どうせ淡水にしても小さな瓶の中ではかわいそうだし、
大きな水槽に移したら、ということになり、
われらが「ひらひら」はおたまじゃくしと同居することになった。
旺盛な食欲を見せるおたまじゃくしとは対照的に、
あまり元気のない「ひらひら」だったが、その後しばらく生き続け、
先日、ついに他界した。R2はまさしく号泣したそうだ。
「ひらひら」は公務員住宅(あ、
俺「こうむいん」じゃなくなったんだよね、そういえば)の庭にある、
大きな木の根下に永眠することになった。
「ひらひら」の話をすると涙ぐむR2に、私は(自信はなかったのだが)
『「ひらひら」は幸せだったと思うよ。』と言ってやった。
R2はうなずく。
R2はかなり頻繁に墓参りをしているらしい。妻に
『R2くんが死んだら、R2くんのお墓の隣に「ひらひら」のお墓を作ってね。』
と言ったそうだ。妻が何と答えたか聞き忘れたが、
おとうさんはちょっと約束できないぞ。
先日ビーバースカウトの活動で海辺で遊んだR2は、 ハゼか何かの稚魚をビニール袋に入れてもって帰ってきた。 どうやって飼おうか「命を捨てるわけにもいかないし。」と悩んでいたので、 どうせすぐに弱って死んでしまうだろうと思いながら、 瓶に入れて飼ったら、といってやったら、それ以来、 瓶に入れて玄関に置いて飼っている。意外に長生きで、 まだ元気なようだ。R2は「ひらひら」という名前をつけて可愛がっている。 R2によると「まだ心は通じあっていない」そうだが、 毎朝(私には何にも言わなくても)元気に「ひらひら、おはよう。」 と声をかけている。えさのカツオブシ(?)も忘れずに与えている。 そのうち心が通じ合うかも知れない、と私は恐れている。
「金色夜叉 上、下」(尾崎紅葉著 岩波文庫)
読了。俗ですな。しかし、予想以上に良かった。
紅葉は今はほとんど読まれないのではないか、と思うが、
もっと読まれて良い作家だ。
昨年あたりから続々と岩波文庫で紅葉が出ていた。
熱海の海岸で、ダイヤモンドに目がくらんだお宮を、
貫一が罵り足蹴にし、「今月今夜のこの月を..」
くらいのことしか知らなかったが、
なかなかこれがすごい話で、思わず引き込まれた。
「金色夜叉」の世界は、許嫁(いや、貫一は「女房」と言ってますね)
のお宮に裏切られ、お宮を永遠に失ったという、
絶対的な喪失感の上に成立している。
貫一はお宮を赦すこともできなければ、忘れることもできず、
何を思ったか高利貸しになる。これは全く理屈に合わない行動で、
お宮にも、富山(お宮が嫁いだ銀行家の息子)
にも「社会」にも何の報復にもなっていない事に注目すべきだ。
おまけに貫一自身、せいせいとして心が晴れるかと思いきや、
むしろアコギな高利貸し稼業が嫌さに体調を崩すくらいなのだ。
何やってんだか。むしろ、
例え鴫沢(貫一を養ってくれたお宮の親)の世話にならずとも、学業を成し、
立派に立身出世して富山に勝って見下すとか、
あるいは同じ悪業に身を汚すのなら
お宮を殺めて自害するとか、富山を殺すとか、
あるいはせっかく高利貸しになったのだから、金を使っていろいろ細工をし、
富山銀行をつぶすとか、もっと「理屈にあった」行動はできそうなものだ。
しかし、貫一は全くそんなことはしない。
実はそこが「金色夜叉」の秘密なのだと私は思う。つまり、
「中途半端」という現実感が、この小説を実に魅力的なものにしているのだ。
お宮にしても、「恋愛と結婚は違うしぃ。」みたいな割り切りで、
貫一と別れ、富山と結婚し、望み通り、何不自由のない生活をするのだが、
今度はもともと好きでもなかった富山が「うざったく」なって、
貫一のことが恋しくて堪らなくなる。実に中途半端だ。
紅葉は、この中途半端の現実というものを、
よくよく理解していた作家なのではないか、というのが、
私の勝手な思い込みだ。しかし、紅葉の描く鴫沢のジジイや、
貫一の高利貸し業の親方である鰐淵の説得力(?)は、現実というものが、
簡単には割りきれない、難しいものであるという、
紅葉の認識を表しているのではないか、と思える。
この作品が絶筆となったのは、実に残念だ。貫一は狭山とお静を「救済」し、
間接的に富山に意趣返しをして、ビールを飲んで笑っているが、
貫一に読んでもらえるかどうかもわからぬ悔恨の手紙を綿々と綴りながら、
息も絶えなんとしているお宮の対比で終わっているのは、
さすがに可愛そうだ。貫一には救いがあるが、お宮にはそれが見えない。
それにしても杉本秀太郎(仏文学者らしい)の解説は呆れたね。
実は富山に嫁ぐお宮には、胸中に、「未婚の娘よりも既婚婦人の立場のほうに、
遥かに自由があるという直感にもとづく計画」があったと「深読み」する。
富山の資産に目がくらんでいる母親を一旦婚姻によってなだめておいて、
その後貫一と密会もしよう、駆け落ちでもしよう。
しかし、貫一はその計画に気づかない。
「新時代の見事なうつけ者」だと断じる。
この手の「深読み」の末、「ヨーロッパの同時代にマラルメ、ヴェルレーヌ、
ラフォルグ、スウィンバーン、
ワイルドの咲かせた悪の花々を優に圧している。」と誉める。
誉められた紅葉が可哀想だね。
仏文学では「深読み」かも知れないが、
日本文学では「的外れ」とか[勘違い」
と言うんじゃないかと思うのは私だけではないだろう。
最近、R1は将棋が強くなって、元々ヘボの私は、 情けない話だがだんだん勝てなくなってきている。 いつかは子供達に抜かれる(負ける)こともある、と思ってはいたが、 意外に早いのでちょっと(かなり)くやしい。
以前はこのページを見てくださる人も何人かいらして、 直接そう言って頂いたこともあったのですが、 ずうっと更新をしないままに過ごしたので、もう誰も見なくなっているだろう。 いろいろ忙しくて、何か書く気が起きなかったのよね。 ということで、誰も見ていないうちに、密かに再開しよう。
- 実は今日は15回目の結婚記念日だったりする。
- 最近見つけた感動の掲示板。 EasySeek掲示板 のひとつ あの本のタイトルが知りたい はすごい。 (現在は「復刊ドットコム」内に移っている。2006/12/4) 何十年か前に読んだマンガとか、小説とかのうろ覚えの情報から、 そのタイトルや著者、正確な出版年など、 確度の高い情報がたちどころに返ってきています。 「なんでそんなことまで知ってるの??」って感じ。 他にも似たような掲示板がありますが。深いです。 ちなみに「EasySeek掲示板」 の他のカテゴリのところは見る必要なしです。
- しばらく前に買ったまま放っておいた 「一遍上人 -- 旅の思索者 --」 (栗田勇著 新潮文庫) を読んだ。 何と言ってもこの著者の文章にうっとりとしてしまった。 実にいい。私は不勉強にしてこの人を知らなかったのだが、 表紙にある著者の紹介には 「フランス・サンボリズムの研究を基礎にして 『ロートレアモン全集』を個人全訳、また詩・小説・戯曲・評論を発表。 さらに日本精神思想史,比較文化論の分野でも多彩に執筆活動を展開。」 とある。文章がうまいのは、まあ、この経歴からは当たり前かも知れない。 この本で芸術選奨文部大臣賞を受賞したそうだ。 「聖絵」を読み解くことによって、 一遍の思想的遍歴を再構成しようというこの作品は、 著者の豊かな想像力と一遍への思いの深さによって、 750年くらい昔の捨聖の姿を髣髴とさせ、 一遍の存在感を感じさせるものになっている。
- 最近、柄にもなくマジメな本を読んでいたので、 本来のワタクシらしく、 力の抜けた本を読むことにしました。 これもまた、最近復刊されたのですが、 「古川柳」 (山路閑古著 岩波新書)を読みました。わが家では、 最近毎日新聞の第2面にある「万流川柳」を話題にすることが多く、 「こんなのが何で掲載なんだ」とか、「これ面白い」とか「そうでもない」、 「これ(何について言っているのか)わからない」とか、 妻と言い合うこともあって、 何となく川柳に興味を持ってしまったのであります。 この本を読むまでの私の「川柳観」というと、俳諧、俳句などには数段劣る、 ゲイジツ性の低い時事ネタ17文字といったところでしたが、 この本を読んで認識を新たにしました。先ず、 (政治がらみの)時事ネタは古川柳では全くなく、歴史ネタが多く、 なかなか知的な遊びである、ということを知った。それから、 何と言っても「遊里」関係の句が多く、当時の庶民生活を伺わせて楽しい。 高尚な句から実に下品な句まで幅広く、根が上品なワタクシは、 かえってこの下品な句に興味を覚えたのであります。 この本は、 古川柳全般にわたって数多くの句を引きながら楽しい語り口で説明をしたもので、 とても面白い。また、 今の人には理解できなくなっている吉原の風俗や歴史について、 かなりまとまった説明があるのもうれしい。
- 最近復刊された 「自由への大いなる歩み --非暴力で闘った黒人たち--」 (M. L. キング著 雪山慶正訳 岩波新書) を読んだ。 やはりつい先日読んだ「マルコムX」と比べてしまう。 アラバマ州のモントゴメリーの牧師として招聘されるまで、 ボストン大学で哲学と神学を学び、博士論文を書いていた男と、 小学校を8年でやめた後、ニューヨークのハーレムで悪徳の限りをつくし、 10年刑務所にいた男とでは、同じ問題に立ち向かうとき、 大きな差ができるのも不思議なことではない。 キングは非暴力的抵抗によって、「兄弟」との融和を求め、 マルコムXは白人を「悪魔」と悟り、隔離を求める。 私は「ワシントン大行進」ぐらいは聞き知っていたが、 キングの活動の出発点となった モントゴメリーのバス乗車ボイコット運動については知らなかった。 この本を読むと、キングのバランスのとれた知性と判断力を感じる。 特に、キングがマルクス主義を学び、それを批判するところは、 彼の考え方を知る上でとても参考になる。 「マルクスが、 形而上学上の唯物論や倫理上の相対主義や人間を絞殺する全体主義を主張するかぎり、 ぼくは、はっきりとした「ノー」をもって答えたが、 彼が伝統的な資本主義の弱点を指摘し、 大衆のなかの断乎とした自覚の発展をたすけ、 キリスト教会のもつ社会的良心に挑戦するかぎり、 決定的な「イエス」をもって答えたのだ。」つまり、 彼は熱狂することもなく、嫌悪することもなく、 彼の基本的立脚点であるキリスト教の立場から、 唯物論を事も無げに否定するが、そればかりでなく、 キリスト教の倫理と資本主義の論理との矛盾を、 マジメに捉えようとしている。非暴力的抵抗という、 一見「極端」に移る彼のやり方が成功したのも、 彼のこのバランスの良さによるのだろう。
- 村上陽一郎というのを この辺 で馬鹿にしておいたが、実は彼は他にもいろいろ大呆けをかましていて、 この辺 でも馬鹿にされているのを最近知った。 ワタクシは馬鹿の存在もそれなりに貴重であるという考えを持っているので、 馬鹿であること自体は罪ではないと思いますが、 この村上のように、影響力のある人間が馬鹿である場合、 多くの人間が被害を被るので、看過すべからざる問題である。 つまり、 馬鹿ではないにしても村上が馬鹿であることを見抜くだけの力のない人が、 村上の話を聞いたり本を読んだりして(科学や科学者に関して)誤った考えを持ち、 科学行政や、科学者の営為に関して否定的な意見を持つことがあり得るだろう。 実際(今はどうかしらないが) 科学技術会議政策委員会委員なる職にあったこともあるのだ。 お笑いだぜ。ちなみに、 ここ に何度も現れる 「ロバート・オッペンハイマ- --- 愚者としての科学者」 藤永茂著 (朝日選書) は読んどいて頂きたい。 藤永氏は九大出身の量子化学者で分子軌道法の専門家。
- 前に一度読んだんじゃないかと思うんだけど、 もしかしたらスパイク・リーの映画で覚えているだけかも知れない。 (デンゼル・ワシントン、オスカー おめでとう。) 最近、文庫本になったので思わず買ってしまった 「完訳 マルコム X 自伝」 (濱本武雄訳 中公文庫)を読んだ。 父親を暗殺され、家族を解体され母は発狂し、 それでも学校では成績が良く弁護士を希望したマルコム少年は、 結局黒人という壁のために小学校8年で学校をやめ、 ニューヨークのハーレムでハスラーとしての生活をする。強盗、麻薬。 結局、白人の愛人がいるというのが主な理由(?) で10年の刑を宣告されたマルコムは、 刑務所の中でブラックモスリムと出会い、白人を悪魔であると悟り、 また猛烈に勉強を始めた。これがすごい。 「もっとも大切なことは辞書を持つことだとわかった。言葉を調べ、 学ぶのだ。」でもどの言葉から学んでいいのかわからない彼は、 辞書の1頁目から発音記号に至るまですべてノートに書き写し、 それからノートに書いたものを声を出して読むということを延々と続けた。 1日15時間以上勉強して無知を克服したとある。元々頭が良いのだ。 (頭が悪くてはニューヨークのハスラーは勤まるまい。) その彼が、 はじめて自分の価値を悟り、 その能力を伸ばすことができた場所が刑務所の中であったというのが、事実だ。 刑務所を出てから、 ブラックモスリムの最も戦闘的で最も成功した「導師」として、 宣教活動をするが、 それこそ命を捧げて崇拝してきたイライジャ・ ムハマドに疎んじられるようになり、命まで狙われるようになったのは、 読んでいて全く心が痛む。メッカ巡礼を機会にマルコムの視界が広がり、 より高い理想へと向かい始めたところで自伝は終わっているが、読者は、 彼がすぐその後に暗殺されたことを知っている。さて、 マルコムが平凡な白人家庭に生まれてきたとしたらどうだっただろう。 生まれつき頭が良く、背が高くハンサムで、意思の強いマルコムが、 人並み以上に幸福な人生を送ったのではないかと考えるのはおかしいだろうか。 しかし、 それを黒人であったがために許されなかったマルコムの強烈な生き様は、 今までもそうであったように、 これからも多くの人の心を揺さぶり続けるだろうと思う。
- アメリカという国の胡散臭さを冷静に分析し尽くすノーム・ チョムスキーの「9.11」(文藝春秋) を読み終わった。 チョムスキーは無知な私でも名前くらいは知っているという有名な言語学者だが、 政治学者としての顔もあるのだということをこの本によって初めて知った。 そして政治学者としてのチョムスキーも、 言語学者としての名声を少しも傷付けない、優れた学者であることがわかる。 私はアメリカのあの傍若無人ぶりが大嫌いで、9.11のあのテロが起きた後、 とても嫌な気持ちになった。 それはきっとアメリカが有無を言わさず報復にでるだろうと思ったからで、 実際徹底的にアフガニスタンに空爆し、一つの国を潰してしまった。 しかも新しい国作りには消極的だし、新たな戦争の準備に入っている。 (某腰巾着国家は、常に全面的に支持するんだろうな。) チョムスキーはアメリカのテロ国家ぶりを全く特別な情報を用いずに (つまり真実を見抜くためには、 特別な(CIAのような)インテリジェンスは要らない、 真の意味のインテリジェンスのみ必要ということ)見事に描き出し、 我々は結局、 本質的なことは何もわかっていないボケであることを思い知らされる。 まあ、いずれにせよ、憂鬱だわな。
- いつのまにか年が明け、既に3月になって暖かい日もあったりします。 R2君 は4月から年長さんになるんですが、 まだいろいろ心配なことがあります。 幼稚園でも浮いているらしい... まあ、R2君の良いところはなかなか同年代の馬鹿ガキどもにはわかるまい と思いますが。もう随分前になりますが、 妻がR2と一緒に折り紙をしていまして、 R2がなかなか手本通りに折らないので 「R2ちゃん、そうじゃないよ。ほらこれ良く見てご覧。」 と申しますと、R2は「それじゃ真似になっちゃうよ。」 と答えたそうであります。 独創性が重んじられる学問の世界にも通じるR2のこの厳しい態度には、 ワタクシも感じ入ったのであります。
- 結局、Turbolinux はクソである、との結論に達し、Vine Linux のXFree86 を 4.1.0 に上げることをトライしたのだが、(Xは動くんだけど) なんか他 のところで不具合があるようで、良くわからないのでやめてしまった。で、 昔のマシンに Vine Linux を入れ、現在最も役に立っているという、進歩 のない話になってしまった。そればかりか、新しいマシンには Windows xp を入れてしまうという人でなしをしてしまった。屈辱感と自己嫌悪の日々 を過ごしております。
- R1君も9才になりました。親馬鹿の私は(一番安い方の)天体望遠鏡を買っ てやって、晴れた夜は一緒に月や星を眺めて過ごしています。自分の子ど もの頃と比べると何かめちゃくちゃ羨ましい子ども時代です。っつーか、 私が結構楽しんでおります。正直言って。
- 数週間前にノートブックが壊れてしまいました。これがまだ買って半年ぐ らいしか経っていないのだが、なにせ、Gateway 製なので泣くしかない。 e-mail を書いても返事が来ないし、サポートセンターに電話しても繋がら ない。ひでえ商売するもんだぜ。 で、それから すぐに、おうちのパソコンがまた壊れた。同じ現象で3度目だせ、akia よ う。もう買わんからな。しかし、さすがにサポートセンターに電話すると、 すぐに繋がって無償で修理してくれることになった。オマエは Gateway よ りは偉い。しかし、やっと ADSL が繋がって便利になったばかりの所で、 喜んでいた私としては痛い。熟慮(?)の末、近くのカスタムパソコン屋に 行って、買ってしまった。これとほぼ同時進行で、私の研究室のデスクトッ プパソコンのリプレースをやりました。今度のマシンは速いですが、私の 大好きな Vine Linux は X が古すぎてこのパワフルなビデオカードに対応 していない。くそお。で、あきらめて、Turbolinux 7 Workstation をイン ストールした。このインストーラーは今まで出会ったインストーラーの中 で最高です。何でもスコスコ自動判別で行けるので、大変喜んでいたのだ が、インストールしてみると、その後結構手間がかかることがわかった。 なにしろ、pTeX も入っていないいんだから。くそお。Turbolinux のユー ザは TeX 使わねえのか! で、そんなこんなで研究室とおうちのパソコン と両方に Turbolinux を入れることになってしまい、日々苦しんでいるの であった。なんか、久しぶりの更新なのに愚痴ばっかだ。くそお。
- 「ハイゼンベルク」
(村上陽一郎著 講談社学術文庫)を読んだ。1984年に出版さ
れたものが絶版になっていたのを、講談社が1998年に学術文庫に入れて出
したもの。私はハイゼンベルクにちょっと興味を持って、(あまり知らな
いから)読んでみようと思ったのだが、この本の大部分は、アインシュタ
インとかボーアとか、当時の (だれでも結構知っている)「科学革命」こ
とが書かれているだけで、ハイゼンベルクの役割も思想も通り一遍で、私
がすでに知っている程度を越えていなし、その後のハイゼンベルクの業績
にも統一場理論以外はまったく触れられていない。さらには、驚くべき間
違いまで見つけた。189ページにド・ブロイの論文について説明していると
ころで、「こうして、電子という粒子に関して、それを波動的に表現する
ための概念である振動数を手にいれ、さらにここでは詳細に立ち入らない
が、もう一度相対論的考察を働かせて、振幅という概念を表現することに
も成功した。それがド・ブロイの公式として知られる
$\lambda=\frac{h}{mv}$ というものである。波動像の基本概念の一つ振幅 $\lambda$ は、プランク 定数を媒介としながら、質量と速度という、粒子に関する力学的概念を用 いて、表現することができる、という事態がここに生れた。」 振幅 じゃなくて 波長 だ ろうが! これは2度も書いてるから誤植じゃないもんね。「詳細に立ち入ら」 なくてもいいから、ちゃんと大切なことは間違えずに書けよ。こんな基本 的な誤りをする人に、偉そうに科学論とか科学史とかやってほしくないも んだと私は思うのでありますが、それは不遜でありましょうか? いずれに せよ、絶版にしときゃ良かった駄作をご丁寧に再版した講談社も馬鹿だね。 (もっともそれを読んだ私も馬鹿だという話もある。) - なんだかんだと忙しくしているうちに、ゴールデンウィークも終わってし まった。ゴールデンウィークの1日は、吉野ヶ里に行きまして、R2ちゃんの ために「ガオレンジャー」ショウを見ました。ガオレンジャーと握手して、 いっしょに写真撮って、R2ちゃんご機嫌。吉野ヶ里からは中国の「新」時 代の貨幣である「貨泉」が出たことを私は初めて知りました。R1君は 「ああ、王莽(この字だったかな?)の『新』ね。」とのたまわっており ましたよ。
- 昨日はバレンタインデーでありまして、義理がたい妻はチョコをプレゼン トしてくれました。
- 大変遅れましたが、明けましておめでとうございます。いやあ、21世紀で すな。昨年11月に引っ越しまして、(また官舎ですが) 新しいところで正月 を向かえました。正月休みは何したっけな? R1は岩波文庫の(私が遥か昔 に買って読み始めてすぐに頓挫した)「三国志」 (当時は全10冊だった)を読み終えておりました。R2は「おかあさ んといっしょ」のテープをかけまくって、踊り通しておりました。ワタク シは日本酒をちびちびやっておりました。妻は黒豆をおいしく煮ておりま した。今年も宜しく。
- 岩波書店刊行の雑誌「科学」 が10月号か
ら12月号の3号にわたって「なぜ、(自然科学を)学ぶのか?」という緊急特
集を組んでいて、ワタクシは現在大変興味深く11月号を読んでいる所であ
る。これほど大きな特集を組まなければならないほど、自然科学の教育を
取り巻く状況は酷く危機的である。その中の記事のひとつで知ったのだが、
朝日新聞社の科学雑誌「サイアス」が12月
号を以って休刊になる。「サイアス」は「科学朝日」の伝統を受け継ぐ日
本で最も古い科学雑誌のひとつである。「赤字」が休刊の理由だそうだ。
ここ何年か「自然」 (中央公論社)、「クォーク」 (講談社)、「オムニ」 (旺文社)、
「ウータン」 (学習研究社)、「ゲオ」
(同朋社出版)、「アニマ」 (平凡
社)、「シンラ」 (新潮社) などの雑誌が
次々に休刊、廃刊になってきている。その中には(紙面作りの点で) 仕方な
いかなというのもあるが、「自然」のような立派な雑誌も含まれているの
は見逃せない。「サイアス」も明らかに立派な雑誌の仲間であるが、「赤
字」を理由に切り落とされるのは、大変悲しいことだ。この休刊(廃刊?)に
対する批判の中には「赤字といっても高校野球に使っているお金の何十分
の一を回せば済むことではないか」「サイアスの赤字くらいで社運が傾く
とは思えない」というものもあり、もっと端的に「この時期に科学雑誌を
止めるというのはジャーナリストとしての見識に欠ける」というものもあ
る。ワタクシ自身は、もう何年も新聞を購読していないフツツカもので、
「サイアス」にしろ、「科学」にしろ、他の科学雑誌にしろ、興味のあり
そうな記事が載った時のみ買っていた、言ってみれば「赤字の原因」であっ
たわけだ。
パソコン雑誌を買う金があっ たら、科学雑誌を買おう。
というのを、自分への反省も含め て、主張したい。「科学メディアと理科教育を考 える会」 (旧「日本の理科教育を守れ サイアスをつぶすな!」) のwebpageはここ にある。立花隆による「サイアス存続のための署名のお願い」がある。 - 「と学会」による「トンデモ本の世界」のファンであるワタクシは、人間 の知性というものは如何に脆弱なものであるか、ちょっとした「弾み」で いとも簡単に「あっちの世界」に行ってしまうものかを常々嘆きつつ、にゃ はは、と笑っていたものでありますが、「「知」 の欺瞞 -- ポストモダン思想における科学の濫用 -- 」 (アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 田崎晴明、大野 克嗣、堀茂樹訳 岩波書店) もまた、「トンデモ本の世界」として読めるこ とを発見致しまして、益々憂鬱になった(と同時に、ゲラゲラと笑っていた) のであります。この「トンデモ本の世界」が紹介している「トンデモ本」 は、なんと、ワタクシのような無知蒙昧の輩でも名前ぐらいは聞き及んで いるという、現代思想界のスター達の文章であります。ラカン、クリステ ヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリャール、ドゥールズとガタリ、 ヴィリリオと、いう有名人達が、数学や科学の用語を縦横無尽に用いて、 なんとも形容し難いファンタジー(?)の世界をつくり出しているのは、滑稽 を通り越して悲しくなってしまいます。著者たち(ソカールら)が言うよう に、科学者の大部分は、こうした人々の「fashonable nonsense」(この本 の原題)を一顧だにしない。これらの馬鹿げた言説のマイナスの影響は、人 文系と社会科学にのみ及んでいる。「と学会」の「トンデモ本の世界」で 扱われる「トンデモ本」は、学術的にも、社会的にもほとんど害を成さな いが、「「知」の欺瞞」で扱われている「トンデモ本」は、多くの「信奉 者」とPh.Dを実際に生み出しているのだ。まあ、それでも人文、社会科学 にナンノ義理もないワタクシとしては、「コイツラばかじゃねえか。」な どと(口には出さず、心の中だけで)思いながら、「トンデモ本」の新しい 地平を楽しんでいたのであります。
- お久しぶりの更新です。皆様お元気でしょうか。実はしばらく前からワタ クシ的には「西遊記」がはやっておりました。既に書いたように諸星大二 郎の「西遊妖猿伝」(潮出版社) (これ第2 部完結でストップしてるんだよな) を楽しみに読んでいたし、寺田克也の 「西遊奇伝 大猿王」(集英社) ( ここで立ち読み出来る) もニコニコしながら読んでおりました。そこ で、やっぱ、ある程度「原作」も知っていないとな、と思いまして「西遊記 上、下」 (呉承恩著 太田辰夫、鳥居久 靖訳 平凡社) を購入致し、2段組の細字をたらたら読んでおりました。そ こにタイミング良くというか、「西遊記 -- トリック・ワールド探訪-- 」 (中野美代子著 岩波新書) というのが出版されたのを知りました。ここで説明されている のは、西遊記が単に荒唐無稽なお話であるばかりでなく、大変緻密に計算 された極度に論理的な構造を持っている、(大抵は道教的な)「仕掛け」だ らけの作品であるということでありました。とっても面白い。しかし、残 念なことにその「仕掛け」は明代末期の「世徳堂本」(現存する最古のテキ スト) においてははっきりとわかるものの、清代のダイジェスト版である 「西遊真詮」においては省略のためにわからなくなっているのだと知って がっかり。私が買い込んだ「西遊記」はこの「西遊真詮」だったからであ ります。あーあ、岩波文庫のセットを買うかな、と、ワタクシの熱も少し さめたのであります。さて、ここでわれらが読書大魔人、R1君の登場と なるわけであります。夏休みに福音館古典童話シリーズの「三銃士 上、下」(アレクサンドル・デュマ 作 フランソワ・E・ツィエール 画 朝倉剛 訳 福音館書店) をなめるように 読んでいたR1君は(ミレディーに大変腹を立てておりましたが)、やはり 福音館古典童話シリーズの「西遊記 上、下」 (呉承恩 作 瀬川康男 画 君島久子 訳 福音館書店)をあっという間 に読んでしまったのであります。(これ、挿絵が瀬川康男なのに注目。) ま あそれはいい。もともと「西遊記」が気に入るだろうと、図書館から借り てきたのはワタクシなのだから。しかしなあ、オレの(平凡社の)まで読 むなよなあ。果ては「おとうさん、『ようとうどかい』って知ってる?」と か言い出す。漢字変換できねーぞ。「窰頭土坏(の異字体)」とは、窯の 前におかれた土の作りもの(瓦とか)のことで、形は出来ているが、水火の 鍛錬を受けていないので、大雨にあえば融けて流れてしまうということか ら、形はそれらしくできてはいるが、鍛錬が無いため道に至っていないな いさまを言うらしい。孫悟空が道士に弟子入りして修行をしていた頃、お 師匠さんが使った言葉。R1君、君のことではないかい。
- オフィスの御引越しをしました。掃除疲れ。
- むかし、原子力関係のブックリストを見たときから読みたかった「ぼくの町に原子力船がきた」 (中村亮嗣著 岩 波新書)を図書館で見つけて読んだ。画家であり歯科技工士である著者が、 「むつ」の母港設置に疑問を持ち、『東奥日報』に投稿したことから話し は始まる。これに対し同誌編集部が、この投書をあざ笑うように次のよう に書いた。「特に原子力船母港問題は、科学的、専門的な知識を要する。 しかも、日本の権威ある学者たちが、その安全性を強調している問題であ る。すでに反対運動をしているからと言っても、なまじっか危険性を振り まわす反対論では、かえって失笑を買うばかりであろう。よほどの勉強が 必要である。といって、いくら一夜づけの勉強をくりかえしても、その道 の素人は、しょせん素人にすぎない。むしろ、自らの半可通を忘れて、知っ たかぶりをするのは、かえって危険であり、はた迷惑でもある。とすれば 危険性を立証するくらいめんどうなことはない。」また、原子力船事業団 の理事、西堀栄三郎氏は「… それなのに原子力の初期時代におこった原子 炉事故と、あのいまわしい原爆の被害を結びつけて「原子」の字のついた ものは何でも恐ろしいものだと宣伝しているのは、火を恐れる野獣の類で ある。…」と書いた。ここに書かれているのははるかむかしの昭和40年代 の話であって、今ではこれほど露骨にはいかないが、基本的にはあまり変 わっていないのではないかと思えるところもある。つまり、シロウトは黙っ てろってことだ。しかし、被害を受けるのは残念ながらクロウトばかりで はない。著者は、中立的な立場から、この圧倒的に不利な反対活動を行っ て、しだいに理解者と協力者を増やしていく過程を綴っていく。この時期 の原子力開発の雰囲気が良く伝わって来る必読書だ。最近でも良く話題に 出る原子力関係のデータの改纂もいわば昔からの「御家芸」であることが よくわかる。この本は絶版(品切れ?)になっていて入手困難であるが、図 書館などではまだ見つかるだろう。再版(重版?)を強く望む。
- 「リトル・トリー」の著者であるフォレスト・カーターの 「ジェロニモ」 (和田穹男訳 めるくまーる) を読む。妥協を許さない強靭な意志の力を感じる。この人の文体はとても simple なのだが、確信に満ちており、引き込まれる。
- 「人生において、本を読んで潰せる時間は絶望的なまでに短い。」「となれば、 貴重な時間だ、仕事でもなければ、つまらない小説を読むのは最小限に止めた方が いい。国産小説なんぞ読んでいる場合ではあるまい。」「酷いことを言うなら ジャンルを問わず九割九分九厘が読むに耐えない屑で、これは99%が屑だと言われる 海外小説と比較しても、約1%、屑発生率が高いことになる。」と、元気良く (みんなうすうす(?)感付いてはいても、はっきりと言わないことを)言ってくれる 「検察側の論告」 (佐藤亜紀著 四谷ラウンド) という書評集(かな?)を読んだ。(念のために言うと女性である。) なかなか面白かったのだが、ワタクシはおフランス風の良識とも悪巫山戯とも縁が 少なかったので、著者の守備範囲とは共通部分が少なくて、話が通じない という所も多かった。この人は米文学とかだめそうだし。で、オチとしては、 まあ、貴重な時間を費やすだけの書評であったかという点では疑問が残る、とでも しておこう。
- 「動物にとっては種の存続が一番大切であるから、それに反するような行動は とらない。ヒトがヒト同士で殺しあいをするのは例外である」という、素朴で美しい 「物語」を、純朴であるワタクシも信じていたのだが、実際の自然はワタクシたちの 想像以上に過酷なものであるらしい。 「動物のそれぞれの個体は、自分の子孫が一番多くなるように行動をする」 というのが本当なんだそうだ。(そういわれると、そんなもんかな とも思いますが。) ライオンや、一部の猿では、他のオスが群れのオスを 襲い、メスを横取りする群れの乗っ取りの後、乗っ取ったオスが前のオスの子供を 殺し、メスが自分の子供を早く育てるように仕向ける「子殺し行動」が知られている そうだが、今回読んだ 「わたしの研究タガメはなぜ卵を こわすのか?」 (市川憲平・文、今井桂三・絵 偕成社) は昆虫で初めて発見された「子殺し行動」の研究について、小学生でもわかるように 書かれたもので、もちろん大人が読んでもおもしろい。 なにしろタガメの産卵からしてすごい。 交尾をして産卵が始まっても、オスは何度も何度もメスの上に重なり、メスも産卵を 中断し、交尾に応じる。これ自体、(昆虫の場合、卵は交尾後すぐに受精するわけでは ないので)産卵直前まで交尾したオスの精子の方が受精に使われやすい、すなわち、 自分の精子を確実に使ってもらうための行動であるそうだ。産卵後は、メスがその 凄まじさを見せ付けることになる。メスは産卵後は、卵の世話をオスにまかせっきり にしてどこかへ行ってしまい、オスが卵が乾燥しないように水を掛けたり「外敵」 から守ったりしているのだが、問題はこの「外敵」で、実は産卵の準備ができた 他のメスが卵を壊していたのだ。そうすることによってそのメスは、もはや卵を守る 必要のなくなったオスを、自分の交尾の相手、かつ自分の卵の守番として獲得する のである。実際自分が守っていた卵塊を壊されたオスは、自分の子孫を残す最も 手っ取り早い方法として、一番近くにいるメス、すなわち卵塊を壊したメスと交尾を 始めるのだ。むーん。これにはのけぞりました。 偕成社の「わたしの研究」シリーズは、オリジナルな研究に基づく良質な子供向け 科学読み物を出しており、私も、石井象二郎の「アリに知恵はあるか?」と 「虫はなぜガラス窓を歩けるのか?」というのを読んだことがあるが、今回の タガメの話は出色ですな。しかし、もともとR1にでも読ませるかと思って 借りた本なんだけど、こりゃあ、エライ「性教育」になりそうでちょっと怖いです。
- 最近、大学改革とか、大学生の学力低下の問題とか、新指導要領の中止運動とか、 なにかと教育問題を考える機会が多かったので、まあ、教育勅語を参考にする よりもましだろうと言うことで、 「福沢諭吉教育論集」 (山住正巳編 岩波文庫) を読んだ。「福翁自伝」は語り口が好きで2、3度読んだが、「学問のすすめ」は おそらく1回は読んだんだろうな、程度で自信がない。「文明論之概略」は読んで ない自信がある。 福沢もたしかに時代の人ではあるが、その先見性 には鋭いものがある。また、感心させられたのは、福沢が大変緻密、というか コマカイ所だ。単に理想論を述べるに止まらず、現状においてベストと思われる 施策を取ろうとする態度は印象的だ。一例を上げれば、小学校は出来たが就学する 子供が少ない。1年で廃学するものもあれば数ヵ月で廃学するものもある。そうした 子供がその短い就学期間において学んだものを一生の宝とするにはどうしたらいいかと 言う観点から、カタカナではなくひらがなをまず教えるべきこと、50音ではなく まず「いろは」を教えること、筆算ではなくそろばんを教えることなどを論じる。 また、福沢が如何に物理学を学ぶことを重要と考えていたかを確認して 満足致しました。「元来、物を見てその理を知らざるは、目を備えて見ざるが如し。 ゆえに窮理書を読まざる者は、瞽者に異ならず。」というとるもんね。 「洋学の実利益を明にせんことをはかり、あらん限りの方便をめぐらすそのなかにも、 およそ人に語るに物理の原則をもってして自から悟らしむるより有力なるはなし。」 福沢の言う「実学」のかなりの部分は物理学を指していたと考えて良いと私は 考える。「生きる力」だか何だか知らねーけど、物理学を学ぶことは合理的思考 を学ぶ上で重要であり、福沢の言う教育の目的、すなわち「人生を発達して あらゆる心身の能力を拡張し、禽獣の境界を去ること」のために本質的である と思うのだが、最近の数理科学教育の軽視の傾向と比べてどうか。岩波文庫には 他に家族論集というのがあるらしい。読むかも知れない。
- 「キャッチ=22」 (ジョーゼフ・ヘラー著 飛田茂雄訳 早川書店)を読み終える。上下2冊の長さで たらたらと読んでいたが、 下巻になってからはスピードアップした。時間的な順序を解体した幾分実験的な 構成は、登場人物に慣れないうちは混乱させられたが、第二次世界大戦を扱って いながら、ユーモラスなスラップスティック(懐かしい言葉だなあ)な感じの展開で 前半はおもしろく読める。後半になるとその度合いがひどくなり、 不条理(またまた懐かしい)はエスカレートして狂気じみてくる。逃れられない。 「ひとつだけ落とし穴(キャッチ)があった..... そしてそれがキャッチ=22だった」
- 2002年度に予定されている新指導要領の実施中止を求める運動 NAEE2002がある。私は最近理数教育の現状に関する本を読んで極めて悲観的になって いるので、賛同し署名した。
- R2ちゃんはお話が上手になりました。先日なぜか 「アイスクリーム美味しかったね。」と言ったので、妻が一体いつ食べたのか 不思議に思い「R2ちゃん、どこで食べたの?」と聞きました。R2ちゃんは 「おくち。」と答えました。
- 続いて「小数ができない大学生」 (岡部恒治、戸瀬信之、西村和雄編 東洋経済新報社)も読みました。分数が 出来なきゃ小数も出来ねーだろうな。という話ではありません。「分数」の方では 主に経済学部のような私大文系に焦点がおかれていたのに比べ、「小数」では まず、国公立大学の文系に対する調査と、その分析がある。さらにこの本のほとんど の部分ではさらに視野を広げ、数学教育ばかりでなく、英語教育、その他、幅広く 現在の(大学教育の視点から眺めた)教育の問題点が様々な人によって議論されている。 現在の教育問題を考えるうえでの大変有用な入門書といった趣きすらある。 いろいろと考えさせられることが多いのだが、特に印象に残った話は、アメリカの 少人数教育についての調査だ。アメリカはしばらく前から極めて真摯に教育改革 を進めてきているのだか、少人数クラスの実験と調査を1984年頃から各州で行って きて、その報告書が次のような結論を導いている。1. 少人数クラスは低学年に おいて生徒の成績を向上促進させる。生徒の学業成績に与える少人数クラスの顕著 な効果はクラスサイズが15から20人の生徒数レベルまで縮小されたとき表れる。 2. 実質生徒数20人以上のクラスを、生徒数20人以下のクラスに縮小すると、平均的な 生徒の成績が、50%から60%上がった。障害を持つ生徒や、少数民族の生徒には、 より大きな効果が見られた。3. 生徒、教師、生徒の親は、クラス規模縮小 による、クラス活動の質への良い影響を報告している。また、クラス規模を実際に 小さくしない多人数クラスは少人数クラスと同等の利益を生まなかったことも 報告している。アメリカは最近18人学級の実現に向けて努力しているそうだ。 現在40人学級である日本の現状を考えると、この差の大きさに愕然とするが、 それ以上にこうした問題について実験、調査を行い、そのデータを元に議論できる アメリカの偉さに圧倒される。日本での少人数クラスの是非についての議論 を見ていると、情緒的であったり、推測のみに依っていたりしてはっきりしない。 私は基本的にアメリカは好きじゃないのだが、 これは完全に負け。こうした「科学的」方法がきちんと出来るか出来ないか というのが、まさに現在問題になっている理数教育なんじゃないかなと思う。
- 「分数ができない大学生」 (岡部恒治、戸瀬信之、西村和雄編 東洋経済新報社)を読みました。私は 大学にいて、学生と接しているのでそれほどの驚きもないが、普通の人は 大いにショックを受けるのではないかと思う内容だ。副題に「21世紀の 日本が危ない」とありますが、実際暗澹たる気持になります。内容は編者を含む 十数人の著者がそれぞれの立場から様々な観点で数学(教育)の重要性、そして 現在の日本において数学(教育)が如何に貧弱であるかについて述べられている。 特に経済学部のような文科系ではあっても数学をかなり使う所での話が多く、 私大文系に焦点がおかれている。特に少数科目による入試の影響の重大さが 印象的である。「それほどの驚きもない」と書いたが、やっぱり統計とか、他の国 との比較とか突きつけられると絶望的な気持になります。だれの責任かということより どうしたら良いのか早急に考えなければならないとあるが、私としては やはり「だれの責任だ!」と叫びたいです。理科系の学生の数学&理科能力についても 詳しい資料が欲しいところだ。(怖いもの見たさ?)
- わが家の読書王であるR1も2年生になりました。R1は前に買ってやった ドリトル先生全集(12巻ぐらい)を10回ぐらい読み返し、最近は 「ハリー・ポッターと賢者の石」 (J. K. ローリング著 松岡佑子訳 静山社)を読みふけっていました。おかげで いろいろ変な言葉遣いを覚えて笑わせてくれます。最近良く言うのは何か わからないことがあると「神ならぬ身が知る由もない」です。ドリトル先生で 覚えたらしい。
- R2ちゃんが昨日幼稚園に入園し、わが家も本格的に新学期が始まりました。 R2ちゃんは、最近はさすがに話をするようになって、私としては大変安心しました。 昨日の入園式では、一人でフラフラすることもなく、泣き出して親や先生を困らせる こともなく、おとなしく良い子にしていました。やるときゃやるよね。しかし、 今朝は、ちょっとしたことで泣き出したりぐずったりで、精神的に緊張している と言う感じがわかりました。がんばれ、R2ちゃん。
- 大学人の端くれであるわたくしとしても、これから大学がどういうふうになって いくのか、どうすれば良い方向に行くのかということには大いに興味を持っています。 で、「授業を変えれば大学は変わる」 (安岡高志、滝本喬、三田誠広、香取草之助、生駒俊明著 プレジデント社)を 読んでみました。この本のキーワードは「大衆化した大学」と「学生による授業評価」 である。進学率が50%を越える「大衆化」と少子化の時代にあって、旧態依然とした 学生を等閑視した授業を行うことはもはや許されない。そもそも大学は学生のため にあり、授業料を受け取っておきながら、学生を満足させることの出来ない講義を 行うというのは詐欺に等しい行為だ。以前から「大学改革」が叫ばれてきたが 一体何ができたというのか。大学教師が本当に恐れるのは、学長でもなく、 学部長でもなく、学生の評価だ。学生による授業評価を導入することによって(のみ?) 大衆化した大学における大学改革が可能なのだ。というのが、まあ、要旨といった ところ。全学規模で授業評価を行っている東海大学の例(安岡はそれを導入する 運動を行った。香取は東海大の理事。三田は東海大で特別講義をし、授業評価を 受けた。)がかなり詳しく書いてある。ワタクシの個人的意見と致しましては、 学生による授業評価をガンガン行ったらよろしい。導入には賛成しても、多くの人が 躊躇している(ように見える)評価を勤務評定に用いることにも賛成しますよ。 九大でも信じられないような講義が横行しているわけで、そうしたものを駆逐する 一つの手段として有用であろうと思います。まあ、その上で言うのだが、この本の 議論はちょっとフェアじゃないなと感じます。一つは大学改革といったときに、 文部省の存在というのが大きいわけだがその観点がほとんど触れられていない。 生駒が東大の客員教授(日本テキサス・インスツルメンツ社長でもある)である以外は 私立大学関係者(滝本はジャーナリスト。)であるせいもあるかも知れない。もう一つは 高等学校ばかりでなく、小学校、中学校だって初めから「大衆化」していたわけだが、 その教育の現場ではどうなのか。「授業崩壊」という言葉が象徴するような最近の 教育現場の荒廃は、各段階で起っているわけで、大学のそれを「大衆化」のみに 求めるというのは説得力がない。(理科系のワタクシとしてはさらに理科離れの問題 に思いを致す今日このごろです。)さらに授業評価賛成=改革派=善、 反対派あるいは慎重派=守旧派=悪、と言う感じの議論には違和感を覚える。 大学教授という利権を守るため学問の自由、学部学科の自治を振かざし、 何かと反対をしてくる、という類いの言い方だ。最後にやはり、大学は何のために あるのだろうという、疑問がある。大学は学生のためにあるのは自明だろうか。 もっと正しい質問は、大学は学生のためだけにあるのだろうか、かな。大学という 「教育サービス業者」対、学生という「お客様」という2者の関係で閉じている のだろうか。
- 久しぶりの更新です。岡野玲子の「陰陽師」 の9巻目がやっとこさ出ました。1年以上待ったぜ。いつのまにか株式会社スコラから 白泉社に変わっていましたねえ。雑誌では見ていないのでそーゆーことは全く 知りませんでした。まあ、装丁とかほとんど変わっていないから問題ありません。 あと3巻かあ。「西遊妖猿伝」の完結の方が早いような気がする。私の周りには 岡野玲子なんて知ってる人はいないだろうなあ、思うとうれしいような寂しいような 今日このごろであります。
- 諸星大二郎の「西遊妖猿伝」(潮出版社) も15巻を数えたが、あと何年で終わるんだろう? これはむかし双葉社から一部出版されて いたものを加筆訂正した「決定版」で、双葉社からのやつは「大唐編」のみだったが 潮出版社のは最後まで行ってくれそう。現在2ヵ月に1冊の割合で出ているから、 この分で行けばあと1年ちょっとかな。「西遊妖猿伝」 は記念碑的作品。当然「西遊記」を下敷にしているのだが、諸星大二郎の凄まじい 想像力によって、本家の「西遊記」とは全く違うレベルの伝奇的世界を創造している。 ここにある元ネタ集(更新してほしい)を見ると、 諸星がどのように想像力を膨らめていったのかという部分が見れておもしろい。 諸星のこうした大変知的な漫画の作り方と、その想像力の大きさには圧倒される。
- あー、遅くなりましたが明けましておめでとうございます。Y2Kで何か起るかな と思っていたのですが、何もなくて何よりでした。原田家の正月は一日から山登り (というか、山歩き)をするという画期的なものでありました。天気が良かったからね。 ことしもよろしく。
- 「市民科学者として生きる」 (高木仁三郎著 岩波新書)読了。頭の中で「こうあるべき」と考えることと、 それを実行することは、全く異なる。本書はそれを実行してきた高木の半生記 である。この前の東海村の臨界事故の際に、原子力や放射線について、 ろくな知識もなく、まじめに考えたこともなかったという自分自身に呆れ、かつ 恥じ入った。もちろん、万人が高木のようにはできないが、しかし、関心を持ち続ける ことは出来るはずだ。
- 「ロボコン博士のもの作り遊論」(森政弘著 オーム社)というのを借りて読みました。この本の主張は、 「もの作り三昧」という精神集中が人間形成にも有用であるという単純なもので、 これ自体は ワタクシもいいんじゃないかと思うのだが、このロボコン先生は仏教哲学への認識も 深めてしまったらしく、でき損ないの仏教入門書のようなものになってしまった という、トンデモ本(著者の意図していないところで楽しめる本)です。 そもそもこの人は大変文章が下手である。たとえば「前頭葉がはたらき出すと」 という節では、「それでは、前頭葉が目覚めると、どのように大脳の中の 戦いが消えるのでしょうか。たとえば、丸と四角は正反対で、そんな正反対なものは 同居することはできない。同居したら、気まずくなるか、けんかばかりしているだろう ---。こう考えていると、大脳の中で(丸対四角という)戦いが発生しているわけです。 しかし、前頭葉がはたらき出すと、視野が広まります。あるいは、それ以前は 平面的な眺めかたしかできなかったのが、立体的に見ることができるように 変わるのです。要するに視覚においての創造性発揮です。 すると、丸と四角は同居できると考えだします。その眼で身近なものを眺めれば、 そういうものはたくさん目に入って来ます。円柱形をしたものは皆そうです。 上からみれば丸、横からみれば四角。すべて丸と四角が同居し、しかも協力 し合って一つのものを形作っています。一円玉、十円玉などの貨幣、乾電池、 トイレットペーパー、アルミホイルの心(しん)(ママ)、今川焼き、巻き寿司... いくらでも見つかります。このように見ることができると、自分の脳の中の戦いは 一つ停戦したことになります。図中の×印が一つ減ります。 これだけでも、少しは気楽になると言うか、おおらかになったというか、 包容力が増したというか、ものの見方の次元が(二次元から三次元に)上がったわけで、 精神的にはプラスの方向へ向いたことになります。 もう一つの例を上げ(ママ)ましょう。男性という者(ママ)は、 道で女性にすれ違うとき、「あ、この人は美人だ。あの人はブスだ」「これはいける。 あれはちょっと」というふうに、心中で本能的に女性の評価をしてしまう もののようです。少なくとも私はそうです。東京のような超大都会に住んでいますと、 一日に何百人という女性とすれ違いますが、このようにいちいち分別して歩くと、 くたびれます。もっとも、それが楽しみだという人もありますが。 美人と思われた女性はよいのでしょうが、ブスだと評価されたのではたまらない と思います。そんなことはさておき、いちいち美醜や好き嫌いの判断評価をする 態度というものは、女性以外についてでもあまり好ましいものではありません。 美しい姿勢ではないと思います。見る方も見られる方も、頭の中に美醜の対立、 すなわちベルリンの壁が出来るからです。 それで、美醜をいちいち問題にしない姿勢こそが美しい、というふうに考えると、 ベルリンの壁は消えますが、このような考え方は前頭葉がはたらいてこそ出てくる ものなのです。さらに言うならば、前頭葉が本当に目を覚すと心の底からの 平等観が身に付きますから、美醜を超越した、安らかな気持の日々を送ることが 出来るようになります。つまり、頭の中の停戦実現です。ストレス解消です。」と、 長々と引用したが、全く要領を得ない感じが良くわかってもらえると思う。 他にも仏教の心理分析が優れており、フロイトやユングの近代西洋心理学を遥かに 凌駕すると述べておきながら、フロイトやユングについてほとんど常識的な知識も ないと思わせる文章を書くなど、独善的である。その辺が「遊論」なんですかねえ。 まあ、トンデモ本のファンには一読をお勧め致します。
- R2ちゃん3歳のお誕生日おめでとう。相変わらずマイペースで大変だけど、 少しずつ成長しているから、まあ、いいです。
- 久しぶりの更新です。最近、ワタクシはR1をダシにして LEGO MindStormsを購入し、着々と遊んでおります。 といっても週末以外は時間がないが。それもR2ちゃんの執拗な妨害に耐えながらという 過酷なホビーだぜ。それでもR1とR2ちゃんと3人でロボット動かして わいわい騒いでるのは結構楽しい。LEGOはなかなか奥が深いらしい。 最近「レゴのしくみで遊ぶ本」 (五十川芳仁著 ソフトバンクパブリッシング)を購入。見ているだけでも楽しい、 美しい本です。私はLEGOで遊んだ記憶がないが(ビンボーだったからこんな高い おもちゃを買ってもらえなかった)、web pageなどをみると、 LEGO歴三十数年と言う人が結構いる。この本の著者もLEGO歴32年だそうだ。 最近MindStormsがいろいろなところで売られるようになって、 ちょっとブームかなと言う感じです。これ関係の本も続けざまに出版されている。 私もしばらくこれで遊ぶことになりそう。
- 相変わらずR2ちゃんは話をしないが、相変わらずにこにこして過ごしている。 それでも最近はR1と喧嘩する割合が高くなった。いつもR1の方がたくさん 怒られるからかわいそう。R2ちゃんは得だね。
- 最近 R1君は「ズッコケ三人組」もの(那須正幹著 前川かずお・高橋信也画 ポプラ社)をほとんど読破し、 「ドリトル先生」もの(ヒュー・ロフティング著 井伏鱒二訳 岩波書店) を読みはじめた。R1の読書量はすごい。「ズッコケ」も「ドリトル先生」も 何度も読み返している。 一方、わたくしはこの2ヶ月ほど読書らしい読書はしていません。
- 「笑うカイチュウ 寄生虫博士奮闘記」 (藤田紘一郎著 講談社文庫)を読む。これは数年前に良く売れた本です が、最近文庫になりました。カイチュウには縁のない世代に育ったので、 読んでいるだけでゾクゾクとマゾ的な悪寒が走りますね。
- 最近なぜか「エクソシスト」 (ウィリアム・ ピーター・ブラッティ著 宇野利泰訳 創元推理文庫)が復刊された。もう25年以上 前になるわけね、あの映画から。あのころ、ちょっとしたオカルトブーム でありました。そのなかで、「エクソシスト」は出色の出来であると私は 思っていたのだが、原作があるのは知りませんでした。原作を読んでみると、 比較的忠実に映画化されたのだなと思います。この復刊に伴って書かれた 笹川吉晴による解説によると、しかし、映画は原作の本質的な部分にかかわる 齟齬があるとのこと。
- 「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」 (ナボコフ著 富士川義之訳 講談社世界文学全集第101巻)を読み終わる。こういうの 好きですよ。ナボコフには貴族趣味的な厭らしいところがあり、それが気になって あんまり読んでいなかったのだけれど、なんか最近再び惹かれます。これは例によって 図書館から借りたのだけれど、最近「世界文学全集」っつーのもなくなりましたね。 この巻には、ベローとサリンジャーも入っているという、まあ、お買い得品です。 もっとも今は売ってないでしょうけど。ちなみにこの小説は最近講談社文芸文庫 から出ているようだ。買っちゃおうかな。
- 「リトル・トリー」(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーる)を読む。父母を失った著者が、5才から10才までの間、 祖父母と暮していた時の自伝的な回想録である。インディアンである彼らの生活は 「単純」で、だからこそ、極めて本質的なものになっている。物質的には恵まれては いないリトル・トリーが、いかに祖父母をはじめ多くの人に愛されて育ったのか が良くわかる。原題は「The Education of Little Tree」であるが、まさしく、 この原題にあるように、彼がすばらしい教育をうけて大きくなったことがよくわかる。 それにくらべ、裁判所の命令にしたがって養育の資格がないとされた祖父母の元から、 孤児院に入れられてしまうところは、胸が痛むところだ。「私生児」の 「インディアン」の「異教徒」として差別され、罵られ、鞭打たれるリトル・トリー に、同じような目にあった多くのインディアンの不幸が重なる。むかし、 「聖なる魂」(デニス・バンクス/ 森田ゆり著 朝日文庫)を読んだことがある。如何にしてインディアンが迫害され、誇りを奪われて いったかがよくわかる。リトル・トリーは幸運にしてその孤児院から出ることが 出来た。そのときはよかったなあと思いました。
- 「ボルヘス、オラル」 (ホルへ・ルイス・ボルヘス著 木村榮一訳 水声社)を、考えてみればまだ 読んでなかったなあと思い、読みました。これは1978年の連続講演です。 前に読んだ「七つの夜」と、ほぼ同時期であり、 重なる部分もある。テーマは、「書物」、「不死性」、 「エマヌエル・スウェデンボルグ」、「探偵小説」、「時間」。これは図書館から 借りて読んだのだが、買わなくっちゃならないかなと思い始めている。
- 「地底旅行」(ジュール・ヴェルヌ著 朝日奈弘治訳 岩波文庫)を読む。何度か映画をみたことはありましたが、 原作を読むのは初めてです。
- ほぼ10年ぶりに「ロリータ」 (ナボコフ著 大久保康雄訳 新潮文庫)を読み返しました。実は少し前に The Annotated Lolita (Revised and updated) (Vladimir Vladimirovich Nabokov, Edited with preface, introduction, and notes by Alfred Appel Jr, Vintage Books) を買ったので、これをちらちらみながら読んでました。allusionなど、無知な私には 全然わからないところがたくさんあるんだなあとわかります。ほんとはもうちょっと 本格的な(注のたくさんついた?)訳があったらいいのかなとも思いますが、まあ、 どっちがいいのかわかりませんね。
- 何を隠そう、この半年間の私の密かな楽しみはカブトムシ(の幼虫)の飼育 にあった!そしてついにこの前の土曜日に白い前羽根の成虫が蛹から孵ってるのを 見つけたのであった。カブトムシの幼虫を育てるというのはなかなかディープである。 元々は去年飼っていたカブトムシが、卵を生んだことに始まる。成虫に孵るところを R1に見せてやりたいと思って、飼い始めたのだが、 こっちがハマってしまいましたね。あの食欲だけで寡黙な幼虫は、なんか、 R2ちゃんのような可愛らしさを持っている。(ちょっとエグイけど。妻はほとんど 見ようともしなかった。)こんな風にハマっているのは、結構たくさんいるみたい。 たとえば、 ここ あたりをみると、みんなやってるなあ。。。という感じです。
- 「アントニーとクレオパトラ」 (福田恆存訳 新潮文庫)を読みました。 「ジュリアス・シーザー」において、 その「技術」と「知恵」を遺憾なく発揮し、目的を遂げて、 世界の三分の一を手にした我らがアントニーは、クレオパトラに狂ってしまい、 オクテイヴィアスに破れ、クレオパトラが自殺したという虚報を信じ、 自殺してしまう。 まったく、エノバーバスでなくても愛想をつかしてしまいそうなていたらくだ。 しかし、それにも関わらず、アントニーは魅力的なキャラクターであり続ける。 オクテイヴィアスはかつてのアントニーの戦いぶりを回顧して、戦いの後の飢餓を どう耐え凌いだのかを語る。「のどが渇けば、馬のいばりを飲み、獣さえむせて 受けつけきらぬぎらぎら澱んだ溜り水にも口をつけた。そうして、その歯は、どんな 穢ない垣根のどんなまずい木の実でも平気で食いかじったのだ。そうだった、 雪の牧場をうろつく牡鹿よろしく、ついには樹の皮まで食ったのだ。アルプス越え のときには、怪しげな肉を食したとか、なかにはそれを見ただけで死んだ者も いると聞いている。それもこれも --- いや、今それを言えば、貴様の名誉を 傷つけることにもなろうが --- 当時はあっぱれ武人にふさわしく、みごとに 耐え凌いで、その頬にいささかの衰えも見せなかった貴様だった。」すげえ。 オクテイヴィアスとの関係が悪くなれば、あっさりと詫びを入れ、 すかさず姉のオクテイヴィアとの政略結婚を受ける。最後の戦いを前に寝返った エノバーバスは、アントニーから自分の持ち物が送り届けられたことを知ると、 後悔のうちに死んでしまう。しかし、まあ、このアントニー君、クレオパトラの 前では、全くの腰抜だ。解説の中村保男によれば、このふたりの関係はたえず ふらついているが、それは彼らがロミオとジュリエットのような一途な 恋人同士ではなく、強く愛し合うこともあれば、痴話喧嘩をやることもある、 いわば倦怠期の男女だからだそうだ。そうした人物を悲劇に仕立て上げる シェイクスピアの筆力は、たしかに大したものに違いないが、わたくしはまだ 「成熟」の度合いが足りないのか、クレオパトラには少々うんざりさせられます。
- 妻が何かの書評で興味を持って、図書館から借りた 「ふうせんの日」(八起正道著 いとうひろし絵 ほるぷ出版)を読んだ。夏休みにひとりで親戚の家に遊びに行った「ワンマザ」こと 和之少年が、そこにある原発の爆破(国際テログループによる?)に巻き込まれる。 その後のパニック、病院への収容、そして死。「子供向けの本」の装丁で、子供の 視点で、子供(向けの本)の文体で書かれているが、すごい描写が多い。 この本は、単に原発反対とわめいているのではない。 「子供の視点」では、むしろそうした(およびそれに反対の)主張は ただ提示されるだけだ。少年が体験する「現実」が、注釈なしで積み上げられていく。 そして、全体像がつかめないまま事態は進行し、子供たちは死んでゆく。 タイトルの風船は、原発反対派の万屋のおばあちゃんが、死の灰が何処まで 飛んだかの目印にするために前もって用意していたもの。事故の後、おばあちゃんは 避難することもなく、たくさんの風船を空に飛ばす。そのうちの一つは、後で 百キロ以上も離れた収容先の病院の庭で見つかる。
- R1が図書館から借りて読んで「感動した。」といったので買ってやる ことにした「だんだら山のバク博士」 (富安陽子 作 高谷まち子 絵 理論社)を私も読んでみた。夢と現実が入り交じり、 なかなかおもしろい。こんな本を読んで楽しめるほどにR1の内面世界が豊かに なっているのかと思うとうれしい。(ちなみに、この本の読者対象は小学上、中学 だそうだが、そんなには難しくもない。私がR1に 「この本は漢字もたくさんあるし、良くわからない言葉とか たくさんあるんじゃないの?」と聞いたら、「漢字はだいたい読めるよ。わからない ところはだいたい23パーセントかな。」と言ってました。 この「23パーセント」っつーのが私は好きだね。)
- R2ちゃんに12インチの自転車を買ってやった。(ほとんど3輪車みたいなもの だけど。) ちょっとは喜んでるのかな。もうすぐ2才半になるが、相変わらず 話さない。わが家の心配の種だ。しかし、いつもにこにこしていて、楽しそうである から、「まあいいか」と考えることにしている。でも夜は10時前に寝てくれよ。
- R1君、自転車に乗れるようになっておめでとう。
- 長い順番を待って、図書館から 「オウムと私」(林郁夫著 文藝春秋社) を借りて読みました。今まで良くわからなかったオウムの内部の状況が、かなり はっきりとわかるようになりました。林郁夫が、最後まで麻原を「最終解脱者」 と信じていたというのは、なんとも恐ろしいことだ。何度も疑念らしいものを 抱いても、この確信によって、すべては納得されていく状況が理解できて、 端で見ていると、どう考えてもクレイジーなオウムにいるサマナたちの論理 がわかってきた。最近、再び復活の兆しのあるオウムであるが、この本を読むと、 その危険性がはっきりとわかる気がする。むかし、シモネタで盛り上がったオウム 報道であるが、この本を読まないと、何が起きているのかわからないのではないか。 しかし、一体、林郁夫は何処で間違ってしまった のだろう。「...そのような、自分の力では解決できず、またとらえどころのない 問題も含めて、世の中のすべてを包括的にかつ総合的に説明できて解決に導く ような法則はないものだろうか、そしていつの日かそのような法則を理解し、 身につけて、世界のすべての人々に説いてまわることができたら、...」という 思いを「人生のテーマ」に据える彼は、それ自体それほどアブノーマルでもない。 (実際、これはきっと多くの宗教家の出発点でもあったのじゃないだろうか。 もっともそんな「法則」があると信じること自体がおかしいと言えばおかしい。) 決定的な彼の誤りは、自分の「解脱」によってのみ「救済」が可能であると思い込む ところのように思える。自分の解脱にこだわるあまり、阿含宗に飽き足らなくなり、 オウムの「実践的」なところに惹かれていく。未だ解脱していない桐山に絶望し、 オウムに入り、「最終解脱者」に帰依し、指導を受けることによって、 自分も解脱できるはずだと思い込んで行く。あとはもう、坂道を転がっていくような ものだ。そして、彼をオウムから決別させ、「まとも」な道に戻らせたのは、 結局「俗なるもの」、彼の医者という職業人としての倫理、「常識」であったのは なんとも皮肉なものだ。
- 「ジュリアス・シーザー」(福田恆存訳 新潮文庫)を 読みました。アントニー、ブルータス、キャシアスという登場人物の中で、 私としては、ブルータスよりもアントニーに魅力を感じてしまうのです。アントニー というのは、「遊び好きの飲んだくれ」として知られ、実際シーザーの生前は腰巾着の ようだ。シーザーの暗殺の直後も、ブルータスらの暗殺者と握手を交したり、 うまく立ち回っている。ブルータスには、演説で「シーザーの愛には涙を、 幸運には喜びを、勇気には尊敬を、そして野心には死あるのみ。」と語る「固さ」、 そして、自分のシーザーへの尊敬の証として、アントニーの追悼演説を聞いて もらいたいと言って去る「甘さ」がある。一方アントニーには、 あの魅力的な演説の中で、 民衆の心を180度回転させてしまう「技術」と「知恵」があるのだ。 「が、ブルータスはいう、シーザーは野心を懐いていたと。そして、 ブルータスは公明正大の士である。」というせりふを何度も繰り返し、 アントニーは、自分を安全な立場に置きながら、 暗殺者たちを非難し続ける。この違いは、単にブルータスが「正義」に訴え、 アントニーが「感情」に訴えたのだというようなレベルの問題ではない。 アントニーの方が、いかに人間というもの、民衆というものをより良く理解して いたか、目的を達成するために、どのように行動すればもっとも効果的であるかを より良く知っていたかの違いなのだ。(そして、実際アントニーはシーザーの 仇を討ち、自分は権力の座に座るのだ。)しかし、このアントニーというのは ほんと隅に置けない。オクテイヴィアスとの会話で、同じ執政官となったレピダスを 「何の取り柄もない、くだらぬ男だ、精々使い走りが分相応といったところさ。」と こき下ろし、これを執政官としたのは、自分に向かう非難を避けるためだと 説明する。シェイクスピアという天才は、こうした人たちの織り成すドラマを、 その絶妙なバランス感覚ですばらしい傑作に仕立て上げ、自分は幕の後ろで 舞台と客席を眺めているのだ。私としては、(いつになるかわからないけど) 「アントニーとクレオパトラ」を読まざる を得ぬだろう。
- そして今日は入学式。雨でした。私にはそれほどの感慨もないのだが、さすがに R1は緊張していたようだ。
- 今日はR1の卒園式であった。二年間よく頑張ったと思う。しかし、二年間の 子供の成長というのは実にめざましいものだ。老化はするが、成長は一向に しなくなった自分と比べて、驚きます。
- 九大の図書館もたまには役に立ちます。 「アポロンの眼」(G.K. チェスタトン著 富士川義之 訳 国書刊行会)を借りて読みました。これは、ボルヘス編纂による 「バベルの図書館」というシリーズの一つとして刊行されました。いまでも 書店で買えるみたい。ボルヘスというのは一流の作家であるばかりでなく、 一流の読書家でもあった。(あの盲目の図書館長は。)チェスタトンは、その彼の お気に入りの作家である。私も昔、「木曜の男」 (吉田健一訳 創元推理文庫)を読んで、たいへんおもしろかったのを覚えている。
- R1のために「オズの魔法使い」 (L.F. バウム 著 渡辺茂男 訳 W.W. デンスロウ 画 福音館書店)を借りたのだが、 まだすこし早かったか。私はこれを多分ちゃんと読んだことがないので、 自分で読んでみた。楽しい展開であっと言うまに最後まで読みきってしまう。 1900年に出版されたと言うからもう100年も昔の話だが、今でも全然 違和感がない。デンスロウの絵(これがちょっと時代がかっているが)も味があって すばらしい。クライマックスは、何と言ってもオズの大王がチンケなぺてん師だと わかるところだろう。これって、童話としてはほとんど反則技だよな。 しかし、それがこの作品に独特の良さを与えている。物語の不思議。 ブリキ男の恋のはなしが、なかなか切ない。いくら孤児であったとはいえ、 陰気なジイさん、バアさんのいる灰色のカンザスに戻りたいというドロシーの 望みだけが、なんかしっくりしない。
- 先日、急にナボコフが読みたくなって、図書館で探したのだが、ほとんど 総合図書館にしかなく、東区図書館には 「魅惑者」(ウラジーミル・ナボコフ著 出淵博 訳 河出書房新社)しかなかったので借りて読んだ。知らなかったのだが、これはナボコフ が最終的にはあの 「ロリータ」(大久保康雄 訳 新潮文庫) につながるインスピレーションを得て ロシア語で書いた短い作品で、彼の意に満たず廃棄されたものが、20年後に 発見され、さらに30年近くを経て、子息のドミートリ・ナボコフによって英訳されて 出版されたものである。ナボコフ自身「プレ・ロリータ」と呼んでいるし、大筋は 似ている。しかし、(残念なことに私は「ロリータ」をあまり詳しく憶えていない。 あれを読んだのは何年前だろう。あのときの喜び(文学的な!)は憶えているのに。) 「ロリータ」の一種の陽気さ、華やかさがない。大画家の、大作にいたるスケッチ画 のような感じを受ける。
- 前から名前だけは知っていたのだが、 「木を植えた男を読む」(高畑勲 訳著 徳間書店) を読んでみた。これはジャン・ジヨノの作品「木を植えた男」のフランス語原文、 日本語訳、それにフレデリック・バック監督による同名のアニメーションからの カット、高畑のジヨノの作品およびバックの作品の解説、バックとの対談からなる。 高畑の解説は、このジヨノの作品が実話ではなく、フィクションであるということを 知ったショックを軸に語られているのであるが、その(少々自分勝手な)こだわりは、 理解はできるものの滑稽に映る。確かに、この作品は『リーダーズダイジェスト』 の編集者の「あなたがこれまでに出会ったことのある、最も並外れた、忘れがたい 人物はだれですか。」という質問の答えとして書かれたし、編集者は、 それが事実であるかどうかを調べ、実在の人物について書くことを要求していた 編集者は原稿の掲載を拒否したという経緯はある。しかし、まあ、 そんなことを知らぬ読者にとってみれば、多少、(本当の話だろうか) と思ったりもするが、ジヨノの文章自体には、 (高畑のいう)明らかな「ルール違反」はない。もともとこのジヨノと言う作家は、 事実か虚構か区別のつけ難い物語を繰り広げる作家だそうだ。と、いうことで、 高畑自身がジヨノの嘘をどう理解するかを書き綴った文章にうんざりさせられたが、 ジヨノの作品自体は、単純で美しく、静かな感動を与えるものとなっている。 (しかしまあ、これを単純に実話と思うというのは、そして、後でだまされたと 騒ぐのは、ずいぶんオメデタイと思うんですが。あたしゃそんなにすれっからし ですかね。)
- 「リチャード三世」(三神勲 訳 角川文庫) 読了。大変な悪党であるが、そういう自分をちゃんと理解しているリチャード三世 は、なかなか愛嬌のあるキャラクターだ。その父と夫を殺したアンを口説いたり、 その夫と息子を殺したエリザベスに娘を妃になるよう説得させようとしたりと、 めちゃくちゃなことをするが、その厚顔無恥ぶりも楽しい。 結構それが成功するんだよなあ。魔女の言葉を信じ、最後にそのからくり(二枚舌) に絶望して最後を遂げるマクベスと、最後まで自分の力を信じ切って破れた リチャード三世は、なかなかの好対称である。
- 最近また「冒険者たち--- ガンバと15ひきの仲間 ---」(斎藤惇夫著 薮内正幸画 岩波書店)を読み返した。 何度読み返しても素晴らしいです。斎藤惇夫には、他に 「グリックの冒険」、 「ガンバとカワウソの冒険」が薮内正幸とのコンビで いずれも岩波書店から出ている。どれも素晴らしい。残念ながら、 他に(私は読んでいないが)「僕の冒険」 (日本エディタースクール出版部)に雑文があるだけだ。この優れた作家がもっと 書いてくれたらと心から望む。
- 明けましておめでとうございます。1999年ですな。年末から何故か 「李陵・山月記 弟子・名人伝」 (中島敦 著 角川文庫)を読んでおりました。山月記は子供の頃国語の教科書に 載っていたのを憶えています。その頃は、完全な創作だと思っていたのですが、 「人虎伝」という原作(?)があるんですね。この本に収められている中島敦の 他の作品も、大抵中国の古典に題材を取ったものだ。33歳で夭折したこの作家が、 長生きしたらどうなっていたのか考えるのはなかなか面白い。こういった作品を 書き続けるのか、はたまた大きく化けていったのか。私は、まあ、こんなとこ じゃなかったのかなと思う。これからも山月記は国語の教科書に載り続けるだろうと 思います。短いし、「手頃」なんだよね。秀作であることは否定しません。
- メリー・クリスマス。さて、今年のR1君のクリスマスプレゼントは、 ビーストウォーズIIのライオコンボイとガルバトロンのセット「史上最大の対決」 であります。このビーストウォーズIIシリーズはTakaraが作っている変形キャラ で、例えばライオコンボイならばビーストモードのライオンと、ロボットモード に変形できます。これがなかなかすごい技で、製作のTakaraの担当者さんには 賛嘆の念を禁じ得ません。(しかし、ライオコンボイはちょっと無理があるぞ!) もっとすごいのは、R1君の誕生日のプレゼントであった マグナボスで、これはそれぞれがビーストモードとロボットモードをもつ3つの キャラ、すなわちライオジュニア、スカイワープ、サントンが合体して出来上がる ものだ。すごいぜ。因みにR2君のクリスマスプレゼントはビデオでした。
- 「リア王」(小田島雄志 訳 白水U ブックス) を読む。「リア王」を読むなんて何年ぶりだろう。昔の印象より、今回読んでみて 非常に良いことが分かった。驚いたのは解説に書いてあったことで、ネーハム・ テートによる翻案が1681年から1838年の150年間もの長い間 シェイクスピアの原作に代わって上演されて来たということだ。なんと、 この翻案によると、リアは最後に復位し、コーディリアとエドガーが結ばれると いうことだ。めちゃくちゃだぜ。ちなみに木下訳、福田訳、小田島訳と、色々 読んでいるのは私が良く行く図書館がpoorでちゃんと揃っていないからで 他意はない。
- このところ、シェイクスピアを読んでみたりしています。少し前に The Complete Works of Shakespeare (David Bevington ed., Addison-Wesley ) を買い込みました。昔から1冊本の シェイクスピアを買いたいと思っていました。気に入っていますが、問題があります。 私の主な読書時間は布団に入ってから眠るまでのほんの短い時間ですが (トシを取ってからホントに短くなった)、寝ころがって読むにはこの1冊本は 重すぎます。そこで昔読んだMacbethのペーパーバック を読み返し、ついでに 「マクベス」(木下順二 訳 岩波書店)を読みました。 マクベスは素晴らしいできですね。特に英語で読むと(分からないながらも) 引き込まれます。ボルヘスは「マクベスには一瞬の緩みもない」と言うようなことを 言っていますが、分かる気がする。 最近「ハムレット」(福田恆存 訳 新潮文庫 )を 読みました。前にハムレットを読んだかどうだか忘れていましたが、思い出しました。 昔読んだことがあります。しかし、なんだか馬鹿みたいな話だなあと思います。 悲劇と言うより喜劇的ですね。これも英語で読むとまた違うのでしょうか。
- 久しぶりに本屋をうろつく時間をみつけ、 「ドクター・アダー」(K. W. ジーター著 黒丸尚訳 ハヤカワ文庫SF)を買って一気に読んでしまった。こういう本があることも 知らなかったんだからなあ。よいこのみなさん、読んではいけませんよ。
- また一つ煩悩を昇華してしまった。へへへ。
- 先日ある人に久しぶりに会い、短い時間でしたが親しくお話をすることが できました。それで私は多少の元気と多少の憂鬱を得ることになりました。 まあ、私もイロイロと反省してみようと思います。(あんまり役に立たんが。) いつになるか分かりませんが、また会えるのが楽しみです。 (結構すぐだったりして。)
- 昨日9月20日は、真夏を思わせる猛暑の中、R1の幼稚園の運動会が ありました。日焼けしましたよ。わたしも親馬鹿だなあと思うのですが、 運動会なんかにいくと、まだまだ大したことはないなあと安心できます。
- 夏は終りました。借りていた「泡のおもしろ科学」 (大澤敏彦著 裳華房)を読み終える。同じ物理学といっても、素粒子と、その他 (特に物性)の興味やアプローチの違いを感じる。この本は副題に--バブルの名誉の ために--とあり、「バブル経済」などと、negativeなイメージを与えられた(と著者 は被害妄想的に思い込んでいる)「泡」が、どのような興味深い性質をもち、さまざま なことに役立っているのかを説明する。一般向けの読み物なので、多くの話題に ついてサラサラと書かれていて、良く分からないことも多い。一番面白かったのは エアレーション(熱帯魚の水槽のブクブク)かな。あんなのたいして役にも立たない、 どちらかというと、涼しげ(?)にみせる仕掛けかなと思っていましたが、 あっと言う間に酸素が飽和濃度にまでいくんですね。
- 夏ももうすぐ終りですな。昨夜は久しぶりに涼しかったです。
- 「究極理論への夢」(S.ワインバーグ著 小尾信彌 +加藤正昭訳 ダイヤモンド社)を読み終える。あのSSCの時期に書かれた本で、SSCを 大いに意識しているが、そればかりではなく、ワインバーグの物理学、特に素粒子 物理学に対する考えが明確に述べられており、大変興味深い。私としては11章の 「神は?」を最も楽しんだ。
- 図書館にいって、なんとなく「ぼくのマンガ人生」 (手塚治虫著 岩波新書)を借りて読みました。手塚治虫に対しては、私はそれほど 強い思い入れは無い。しかし、私達のようにマンガを読んで育った世代の者は 手塚治虫を知らずに済ますことはもちろんできない。この本を読んで、手塚治虫の あの膨大な量のマンガが、たった一つのテーマに貫かれているのだと知る。それは 戦争の体験からくる、「生きていてよかった」という思い、「生命の尊厳」だ。
- 夏ですな。夏には関係ありませんが、「大臣」 (菅直人著 岩波新書)を読みました。官僚支配というようなことについて、漠然と したイメージしか持っていなかったが、行政の場で、実際どのように支配されている のかよくわかりました。行政改革の基本として、「行政権」とはなんなのかと いうところを詰めていく菅直人は理系だぜ!と思いました。
- 「銀のほのおの国」(神沢利子著 堀内誠一画 福音館書店)を読みました。これは随分むかしに出版されたもので、数年前に 改定版がでました。あまり期待していなかったのですが、なかなか良かったです。 最近はあまり難しい本が読めません。 先日も「ホビットの冒険」(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳 寺島竜一絵 岩波書店)を読みました。(読み返しました。昔読んだ 時はペーパーバックでした。)
- 最近あついですな。今日7月7日は、R1の幼稚園で七夕会があります。
- しばらく前、ラジオで由水常雄の(連続)インタビューを聞いた。それで、古代の ガラスの技法について興味を覚え、「古代ガラス」 (由水常雄著 平凡社カラー新書)を読んだ。美しいカラー写真がたくさん入っていて 楽しい。中にはうっとりするほど美しいものもあり、それを眺め、やはり わたしのようにうっとりとしたメソポタミアの人々、エジプトの人々のことを 想像する。ちなみに、正倉院のガラス器は、技術的にも最高水準にあるササン・グラス の名品中の名品だそうだ。
- 昨日、R1と一緒に立花山に登った。低い山だが、初めて頂上にまで行けて、 R1は嬉しそうだった。ふたりで色々話をしながら歩いて、楽しかった。
- 先日研究室の遠足で、雲仙に行きましたが、そこにあった諏訪の池には 白蛇が目玉を子供にしゃぶらせて育てたという伝説があるそうだ。 子供の頃読んだ「龍の子太郎」(松谷みよ子著 田代三善絵 講談社青い鳥文庫)を思いだし、図書館から借りて読んだ。解説に よると、信州の小泉小太郎の伝説によるという。 龍(蛇)が自分の目玉をしゃぶらせて子供を 育てるというインパクトの強い伝説が、色々な場所にあるのに驚く。 忘れていたが、龍の子太郎の母親が龍になったのは、村で山仕事に出たとき、 妊婦であった「たつ」が皆の分の食事の用意をしていて、 イワナを3びき一人で食べてしまった からだった。(つわりがひどくてそれまでロクに食事もできないでいたらしい。) 龍の子太郎は「そんなばかなことがあるか。」(私もそう思う)と、 山の生活の貧しさを解消するため、龍である母親の力を借りて、母親の住む湖の水を 海に流し、広い平らな土地を作り上げ、人々を豊かにすることを夢見、実行する。 広大な土地ができ、龍の子太郎の涙で母親が奇跡的に目が直り人間に戻っても、 わたしは何か釈然としないものを感じるのであった。
- R1が長いお話が読みたいと言うので、図書館から 「へび山のあい子」(古田足日著 田畑精一画 童心社) を借りてきたのだが、これはさすがに難しかったのか、読まない。で、わたしが どんなもんかなと思って読み始めたら、一気に読んでしまった。この本で古田 足日は、いわゆる神話的な世界を採り入れることに工夫し、善と悪、人間疎外、いじめ など、深い問題へとアプローチして いる。「童話」という枠組の中での、彼自身の真摯な挑戦ととれる。必ずしも 全てが成功しているとは言えないが、著者の迫力が伝わり、一読に値すると思う。 古田足日は有名な児童文学者。私の知っているだけでも 「大きい1年生と小さな2年生」(偕成社)、 「ロボット・カミイ」(福音館書店)、 「おしいれのぼうけん」(童心社)がある。 私は読んでいないが、「宿題ひきうけ株式会社」 (理論社)も有名。
- 春休みから読んでいた「世界終末戦争」 (M・バルガス=リョサ著 旦敬介訳 新潮社)を読み終る。2段組で700ページを越える 大作である。19世紀末にブラジルに本当にあったアントニオ・コンセリェイロら によるカヌードスの反乱に取材した、(解説によると)南アメリカの苦悩の叙事詩 である。私はバルガス=リョサは初めてで、どうしてもガルシア=マルケスと比べ たくなるが、マルケスのような魔術的な雰囲気はないが、実験的(危うさは少しも 感じられない)技法の楽しさはある。ラテンアメリカ。信じられないような話が、 次から次へとまるで何も変わったことがないかのように続けざまに語られる ラテンアメリカの文学。やめられませんね。
- R1はこの4月から年長さんになる。R1に「年長さんの次は小学校だねえ。」 というと、「そうだよ。その次は中学校。その次は高校。その次は大学。」と言う。 そこで、「じゃあ、その次は?大学院は?」と調子にのって聞くと、 「行かなくていい。」と即答した。
- ゆうべ突然思い出したこと。かなり前に 「アルケミスト」(パウロ・コエーリョ著 角川文庫) を読んだが、そのプロットは「千一夜物語」からのパクリであることが 「七つの夜」を読んだときにわかった。パクリが 悪いというわけじゃありません。(ボルヘスだってもちろんそんなことは 言わないはずです。)ただ、この二つの物語の間に、そういった関係があるのを 知るのは、私にとって喜びであったわけです。
- 先日本屋を覗いていたら、岡野玲子の「消え去りしもの Missing Link」が装いも新たにスコラから出ているのを見つけてしまい、 思わず買ってしまった。 じつは新書館から12年前に出ているのも私は持っているのだ(自慢)。 かなり前から岡野玲子ファンである私は、彼女の初めての単行本がきれいな本になって 再刊されたのを多いに喜ぶ。これは今読んでもなかなかいいファンタジーです。 同じスコラから刊行中の「陰陽師」も現在6巻まで きた。わたしの数少ない楽しみのひとつであります。
- 「物理がおもしろい!!」 (ガリレオ工房・滝川洋二編著 日本評論社) は元気な物理サークルの話が たくさんあって感心する。いろいろな 実験が工夫されていて、しょーもない受験問題集を解くよりも、もっと本質的な 理解が進むのではないかというものがたくさんある。自分が「理論」で、それも 「素粒子」という、日常的な経験とはかけ離れたことをしている人間なので、 「物理」といってもすぐに「紙と鉛筆で」というアプローチに走る傾向があるが、 やはり「本質」は自然を経験(実験)し、経験から理解へと進むことだろう。 高校の理科の先生の必読書(?)。 わたしが感心した実験は(良く知られている、あるいは昔に自分でもやった のかも知れないけど)次のようなもの。 温度が分子運動の激しさの尺度であるのはいいとして、「激しさ」とは 一体何であるか?アンモニアと塩酸(分子1個の質量比はほぼ1:2) を湿らせた綿をガラス管の両端に置く。 この二つの気体が衝突すると塩化アンモニウムの白い煙が見える。 この位置が何処であるのかによって、分子運動の「激しさ」が「分子の速さ」 であるか、「運動量」であるか、または「運動エネルギー」であるかが 目で見て(!!)わかる。ほかにも500円で霧箱を作ったり、電子レンジで プラズマ発光させたり、面白いものが多い。ネット上で紹介されているこのての おもしろい実験は インターネット版 [理科の部屋]からいくらでも見つけることが できそうです。
- これも妻の推薦で「森へ」 (ジーン・ヘグランド著 山本やよい訳 早川書房 )を読む。 何事かが起こって、電気もガソリンもなく なってしまった(近未来?)世界で、人里離れて森の開墾地に住む二人姉妹の話。 妻の警告どおり、ちょっと「女性的」すぎて感性のずれが大きいのが難点。 しかし、迫力のある筆致で、最後まで読ませる力はある。
- 妻が何かの推薦文を読んで 「マチルダはちいさな大天才」 (ロアルド・ダール著 宮下嶺夫訳 クェンティン・ブレイク絵 評論社)を 図書館からリクエストして読み、えらくおもしろがっていたので私も読むことにした。 5歳のマチルダちゃんは、3歳になるまえから字が読めるようになって、学校に 入学する前にはディケンズを読んでいる大天才で、無理解で粗暴な両親と、暴力的で 抑圧的な学園長のもと、やさしい担任のミス・ハニーを助けるという他愛もないが おもしろいお話し。子ども向けの本なのであっという間に読めます。
- 3月8日、スーパーGUTS(超対称大統一理論ではない。 Global Unlimited Task Squadの略らしい。)のアスカ・シン隊員 (ウルトラマンダイナに変身する)が三井グリーンランド の隣のウルトラマンランドに来るというので、早起きして高速をとばし、 行ってきました。R1は御満悦であります。しかし、 「アスカ・シンは本物だったけど、ウルトラマンダイナは偽物だった。」と 妻に語ったそうだ。あなどれん。わたくしは、怪獣ブースカ(知ってますかね?) と肩を組んで写真をとったり、ブースカのキャラクター小物を買って、とても 嬉しかった。
- 「ネルソン・マンデラ自伝 自由への長い道」 (ネルソン・マンデラ著 東江一紀訳 NHK出版)をここ1、2週間夢中になって 読んでいた。この本は上下2冊で900ページ近くの大部であるが、極めて 良く書かれていて、読むものを引き付ける。マンデラという人の魅力であろう。 「わたしはこの偉大な変革が成しとげられるという望みを、一度も捨てなかった。 すでに名をあげた英雄たちだけではなく、この国のふつうの男たち、女たちの 勇気を信じていたからだ。あらゆる人間の奥底には、慈悲と寛容がある。肌の 色や育ちや信仰のちがう他人を、憎むように生まれついた人間などいない。 人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことが学べるのなら、愛することだって 学べるだろう。愛は憎しみよりも、もっと自然に人の心に根づくはずだ。獄中にあった もっともつらい時期でさえ、同士たちやわたしが限界まで追い詰められると、看守の ひとりが人間性のかけらをのぞかせたものだった。たとえほんの一瞬のことで あっても、それがわたしを励まし、持ちこたえさせた。人の善良さという炎は、 見えなくなることはあっても、消えることはない。」迫害され、弾圧され、 30年近く牢獄に繋がれてたあとで、この力強い言葉を発することのできる 人である。
- 先日久しぶりに古書店に入ったら、前から買おうと思っていた 「七つの夜」(ボルヘス著 野谷文昭訳 みすず書房) の美本が半額で売っていた。しめしめ。久しぶりにボルヘスに浸る。「神曲」、 「悪夢」、「千一夜物語」、「仏教」、「詩について」、「カバラ」、 「盲目について」、の7つのテーマにわたる晩年の連続講演である。 6番目の講演はもともと「アレクサンドリアにおけるグノーシス派について」を 予定していたのを、急遽変更したとのこと。これも読んでみたかったなあと、 存在しないテクストに思いをよせる。
- ずいぶん昔に買ってそのままにしていた 「ピノッキオの冒険」(カルロ・コッローディ著 米川 良夫訳 河出文庫)を読む。子どもの頃読んだときは、ピノッキオの馬鹿さ加減に 呆れていたのだけれど、今回読み直して、ピノッキオがすごく良い子なので びっくりした。まあ、ひとの(ピノッキオは人形だけど)愚かさ、懲り無さ加減について ずいぶん私も学んだのだろう。あと、父親という観点も新たに加わった点ですね。
- 「はてなぜどうしてガリレオクイズ みんなでチャレンジ物理学」(佐伯平二 著 合同出版)は出色の出来でした。クイズ形式で 物理の基礎的な法則を復習します。おすすめ。
- 「コンピュータと教育」、 「新・コンピュータと教育」 (佐伯 胖著 岩波新書)を冬休みに読む。前者は86年刊で、後者は97年刊。 コンピュータの世界で9年の歳月はすごく大きい。後者はしかし、前者のupdated versionではない。前者は主に「絵画」的シンボルの重要性と、 ユーザーインターフェイスについて論じ、後者は「道具」としてのコンピュータという 切口でアプローチしている。よくある「コンピュータを教育の現場に」的な 本ではなく、「わかる」とはどういうことなのか、人工知能研究について説明したり、 教育の現場でどんな風に「教育的に」コンピュータが使われているか等、興味深い 話が多い。
- あけましておめでとうございます。
- R2も1歳になりました。あっというまの一年でした。
- 「インターネット激動の1000日 WWWの地平を切り開くパイオニアたち」(ロバート・リード著 山岡洋一訳)を読む。ネットスケープ、 ヤフーなど、いまでは我々の生活の一部になったWWWの世界のいろいろな企業の創業(者) の話。アメリカ人の起業家精神に感心する。本自体はだらだらしていて2冊読み通す のは疲れる。
- もう一つ北朝鮮ネタ。 「北朝鮮亡命者 五十人の証言」(朝日新聞アエラ編集部 朝日新聞社)まで読んでしまった。こんなの2冊も 読むつもりはなかったのだが、なんといってもおもしろいので。。。北朝鮮が 貧困と盗みと賄賂の世界であることがよくわかります。
- 日本人配偶者帰国でいろいろとにぎやかですが、 「北朝鮮 普通の人々」 (チャン・キホン著 宮塚利雄訳 イースト・プレス)を読みますと、 あの人達は「普通」の人々ではないんだなあというのがよく分かります。
- 風邪モードは最終段階に入り、私も風邪をひき、それも大変ひどい。 前と同じパターンです。
- またもや我が家は風邪モードに入ってしまった。私だけがかろうじて 生き残っている。R1の鼻水を強くかませすぎて中耳炎にしてしまった。 反省。中耳炎というのは1歳くらいと5歳くらいがかかりやすいらしい。 R2の鼻水も、一時は2本の流れる滝のようであったが、ここ2日くらいは 枯れてきた。いろいろよく喋るが、夜泣きがひどくなってきて妻はふらふら。
- 「ブックライフ自由自在」(荒俣宏著 太田出版) を読む。むかーし「BOOKMAN」という雑誌があったが、それに連載されていた ものを大幅に加筆修正したもの。「BOOKMAN」をしばらく読んでいたので、 いくつかの話は覚えていた。荒俣はほんとビョーキ。私はこういう破滅型が 好きなので、彼の本がたくさん売れて、その金を稀書収集にふんだんに 使ってもらいたいと思うのであった。
- 「救世主の野望 オウム真理教を追って」 (江川紹子著 教育史料出版会)を読む。わたしは1990年の総選挙のときも、 地下鉄サリン事件のときも日本にいなかったので、オウムに関する基礎知識が かなり欠落している。この本は1991年出版で、地下鉄サリンのような オウムの危険性が決定的に認識される以前のものだが、特に若者がどうしてオウム に走るのかという点に焦点を置いて書かれていて、今でも一読の価値があると思う。
- 「チベットわが祖国 --ダライ・ラマ自叙伝--」 (ダライ・ラマ著 木村肥佐生訳 中公文庫)。前から中国がチベットでめちゃくちゃ しているというのは知っていたが、この本でそれを詳しく読んでみるとほんと 許しがたいと感じる。ここにチベット関係の情報がありそうだ。この本以降の情報をフォローし、 チベット問題に関心を持ち続けよう。
- 「ストーカー」(A&B・ストルガツキー著 深見弾訳 ハヤカワ文庫)は予想以上によかった。むかーしタルコフスキーの 映画を見た。随分雰囲気が違う。
- R2はもうすぐ言葉が出そうな感じ。(ほんとはなんて言いたいのか 分からないけど)よく「オッケー」と言っている。夜泣きがひどくなってきている。
- 「ぼくはこんな本を読んできた」 (立花隆著 文藝春秋社)を読み終える。すごい読書量にあきれかえる。 いろいろと役に立つ示唆に富む。特に人類の知の蓄積は古典にではなく、 最新のレポートのなかにあるという意見には(ほとんどの理系の人はそうだと 思うけど)共感する。
- なんか最近読書日記のようになってしまった。R1は今月(10月)30日で 5歳になる。今から幼稚園でのお誕生会を楽しみにしている。R2は最近ほんとに 目が離せない。4、5歩あるく。食事の時は戦争だ。妻はR2をおんぶしながら 食事することもあるという。
- 「神は老獪にして... アインシュタインの人と学問」 (アブラハム・パイス著 西島和彦監訳 金子務、岡村浩、太田忠之、 中澤宣也訳 産業図書)を読み終える。 (最近本を自分では買わないから、分厚い本をよく読みます。) もともと興味は アインシュタインが一体どういう思索の流れによって特殊相対性理論から 一般相対性理論にまで到達することが出来たのか ということに興味があって読み始めた。その他にも色々とおもしろい事が分かって 良かった。しかし、まあ、やっぱ、すごいなあ。
- 「ムルガーのはるかな旅」 (ウォルター・デ・ラ・メア著 脇明子訳 岩波少年文庫)も読みました。 わたくしはファンタジーは好きですが、これはちょっと古いですね。
- 「12万円で世界を歩く」 (下川裕治著 朝日文庫)読了。1990年に出版されたのが最近文庫になった。 カゲキな旅行をしたい人に。
- 「ぐりとぐら」で有名な中川李枝子と大村(山脇) 百合子の「かえるのエルタ」(福音館)を R1の寝ている間に読む。1964年初版なのに古さを感じさせないのには驚く。 R1は最近このぐらいの本を夢中になって読んでいる。中川・山脇コンビの 「いやいやえん」も 「おひさまはらっぱ」も何度読み返したかわからない。
- 「ガレッティ先生失言録」 (池内紀 訳 創土社) を読む。このオッサンほんまにおもろいで。しかし、わたしは忙しくて本 なんて読んでる暇ないんだけど。昔からの現実逃避癖。
- 夏休み終了。家で子守はなかなかつらいぜ。
- 「おもしろくても理科」(清水義範著 え・西原理恵子 講談社)読了。急速に落ちるねえ。清水義範のノーテンキな 「滅亡論」にあきれ、サイバラのアナーキーな所を楽しむ。
- ムツカシイ本を読んでいたので今度は気楽な物を。 「MICROCOSMOS」 (クロード・ナリサニー、マリー・ペルノー著 トレヴィル)は昆虫の不思議で 美しい世界を鮮明に表現した写真集。(同じタイトルの映画もあるらしいが そちらの方は知らない。)短い文章がいくつか挿入されているが、 どれも興味深くすばらしい。それにしても昆虫というのは異質なものだね。 同じ「生物」と思いたくないというか。自然の美しさと驚異に興味があり、 本体価格3800円と少し大きめの本を置くスペースがある方にはお勧め。
- なんとか「皇帝の新しい心」 (ペンローズ著 みすず書房)を読み終える。 (アンデルセンのお話し「皇帝の新しい服」は「裸の王様」の方が通りがいいので、 すぐにこのタイトルとは結び付かないかも知れない。) 「時空の本質」を読んでいた時、 どうもペンローズの話しが良く分からず、何か皆が良く知っていて 自分だけ知らないことがあるような気がしていた。それは正しくこの本であった。 ここで彼はコンピュータが心を持ち得るかという疑問から出発し、 アルゴリズムとチューリング機械を論じ、ゲーデルの定理を説明し、 計算可能性と物理法則を、量子力学の「パラドクス」を検討する。 熱力学第二法則と宇宙論の関係を論じ、量子重力理論を推測する。 脳について知られていることをまとめ、心の物理学を想像する。 大抵常識的な観点に立つのだが、時として恐ろしくhereticalなことを言う ペンローズのこの大著はすごく刺激に富んでいる。でも、 もう「おじさん」の私にはちょっと辛い。
- R2の火傷の痕はかなりきれいになり、一安心。
- ついでに「スター・レッド」(萩尾望都著)も 読み返してしまった。ちなみに私はレッド・星はメリーベルの、 エルグは エドガーの転生であると信じている。アランはヨダカか。
- 久ぶりに「ポーの一族」(萩尾望都著)を読み返す。 最後に読んだのはいつだっただろうか?私には容赦のない時の流れがあり、 彼らは、何事もなかったように同じ表情を私に向ける。(これ、新しい楽しみ方。)
- Hubble Deep Field を張り付けて少しカラフルなホームページにしてみた。 読みにくくなったような気もする。 ちなみにこれは宇宙の美しさを広く知らしめるという 教育的目的の為に使われていると理解して頂きたい。 "This picture was created with support to Space Telescope Science Institute, operated by the Association of Universities for Research in Astronomy, Inc., from NASA contract NAS5-26555 and/or Grant [number], and is reproduced with permission from AURA/STScI."
- 当然のことながら私も風邪をひき、この週末はジゴクでした。咳のしすぎで 腹筋がいたい。おまけに妻はR2の顔に火傷をさせて医者通いをはじめる。 原田家受難の日々は続く。
- 現在、我が家では私以外はすべて風邪をひいて、ごほんごほん、鼻水だらだら で苦しんでいます。
- 「時空の本質」(ホーキング、ペンローズ著 早川書房)読了。 駅前の書店に平積みされていて、早川書房だし、軽ーい読み物の ようにみえましたが、とんでもない。難しかった。1994年にケンブリッジ大学 アイザック・ニュートン数理科学研究所が主催したプログラムの一つとして 行われた3回ずつの連続講義と討論です。 一般相対論と量子論の基礎的な知識を前提とするとしてあるが (それだけでも読者は随分と絞られているはずだ)、実際は 一般相対論についてのかなり専門的な知識を持っていないと半分も分からない のではないか。ホーキングが、主に彼の60年代後半から最近までの仕事 (というか、「最近30年の主な発展」だろう。まざまざと思い知らされるのは、 ホーキングのこの分野での寄与の大きさだ。) を中心に基調的な講演を行い、 それに補足するように、あるいは対峙するように ペンローズが講演をするという感じで続いている。扱われているトピックスは 特異点定理、宇宙検閲仮説、量子ブラックホール、ワイル曲率仮説、観測問題、 無境界提案(Hartle&Hawking)、ツイスターなど。 (hep-th/9409195にホーキングの講演の分だけある。)
- 「ハッブル望遠鏡が見た宇宙」 (野本陽代・R.ウィリアムズ著岩波新書)読了。 といっても、 きれいな写真を楽しんだだけだから「読んだ」とはいえないかも。 美しいです。美しいです。しかし、本体価格940円は高いです。 (ここ でいくつかの写真を見ることができます。)
- R2は現在6か月半であるが、つかまり立ちをしようとしてあぶない。赤ん坊に 詳しくない人の為に解説すると、これは超早すぎる。(悪貨は良貨を駆逐する。 わたしの日本語も乱れる。) 早く立って歩いて欲しいと願うのはオバカな親です。 「はいはい」を十分しなければいけません。ちなみにR1は「はいはい」ダコが できた。これはちょっと自慢(?)でした。
- 下の話を書きながら、サキの「平和的玩具」という話を思い出しました。関係 ないけど。
- R1は幼稚園に行くようになってから、友達の影響で「ウルトラマン」に ひどく興味を持つようになって、一日中ウルトラマンしている。いままで Sesami Streetとか、電車とか、絵本とか、比較的「平和的」なものに 興味を持っていて、 他の子が「Bファイター」とか騒いでいてもほとんど 興味を示さなかったのに。。。と、しばらく残念がっていたのですが、 いろいろと話をすると、それなりに心理的必然性のあるものなんだなあ、 成長しているんだな(後退じゃないんだな)と わかってきました。 (これについてはここでは述べない。) で、最近は 広い心で、休日(ばかりではない!)の「戦いゴッコ」の相手をしています。
- 最近神戸の事件の「解説者」としてよく出る精神科医高橋紳吾先生は、 私のオトモダチです。オウムの時もひっぱりだこで、 危険な(?)生活をしていたそうです。
- 「新版・自然界における左と右」 (マーティン・ガードナー著 紀伊国屋書店)読了。 肩の凝らない科学読み物っていいね。面白かった事(1)パスツゥールが ブドウ酸(旋光性なし)の結晶を丹念に顕微鏡を見ながら小さな道具を使って、酒石酸 (旋光性あり)と、その立体異性体に分離した話。これは感動的。(2)ウィリアム・ トムソン(ケルビン卿)の渦理論。これは知りませんでした。原子は小さな見えない 渦の輪で、いろいろな振動数で振動し、それが原子の様々な性質を与えるとする説。 これは彼一人の狂気(?)ではなくて、当時の高名な物理学者もかなり支持していた。 たとえば、電子を発見したJ.J.トムソン。彼は六個を超えない輪だけが安定な 分子を作るべくつなぎうると論じた。あのマックスウェルも信奉者のひとりだ。 「渦原子がいったん運動を始めると、全ての性質は絶対的に固定され、基本方程式 で完全に表現される始源流体の運動法則によって決定される。」「しかし第一の 点は、物質の完全な理論のもっとも切実な要求でないにしても、先ず質量、ついで 重力を説明する事である。‥‥われわれが物質と呼ぶものは始源流体そのもの ではなく、むしろ始源流体の運動様式である。」..... えへへへへ。 「あれ」に似てますね。実際ガードナーはスーパーストリングと比べている。 しかし、この本、訳がひどい。回文のところで "Girl, bathing on Bikini,eyeing boy, finds boy eyeing bikini on bathing girl" の訳を(ビキニを着た女の子が男の子を見たら、 男の子が女の子のビキニを見ているのに気がついた)とあったのにはあきれた。 それから「時空間的接近法」って 何の事かわかりますか?答え:Spacetime Approach.ファインマンのエピソードの ところに出てたからわかったけど、 もうちょっとどうにかなりませんか?
- 半年ぶりに車を洗いました。
- 「いい子に育ててごめんなさい」(南方新社 前原寛著)読了。 あまり期待していなかったが、大変興味深かった。ワタクシも 二人のこどもの親でして、こどもがどうやって育っていくか、 どう育てていくかということに深い関心を持っている。この本は、 表面的な問題のとらえかたをせず、根本的なところを考えよう としているのが 共感でき、また、その主張は、ほとんど納得できるものだった。しかし、 それは同時に問題の根の深さ、「解決」 の難しさを認識することでもある。
- 「地下水の世界」(NHKBooks 榧根勇著)読了。 いろいろ知らないことがあって 面白かった。例えば地下水の流速が、年に数メートルから数百メートルである とか、洪水時の川水の大部分は地下水であるとか、地下水は年齢が数十万年 から数百万年の古いものがある(オーストラリアの Great Artesian Basin は百万年以上)とか、ガイベン・ヘルツベルクの関係「地下水面の海抜標高が hの地点では、塩淡水境界面は地下水面下41hの深さに現れる」とかありました。
- だからさあ、Unixはわかんねえんだよなあ。Macがいいよ、Macがね。
- 風邪は直りました。まだ少し咳がでます。
- わたしは風邪をひきました。久しぶりです。
- 最近土曜日によくR1と図書館に行く。大抵R1の本を借りて、3時から30分間 の「読み聞かせ会」につれていくため。ついでに妻の読みたい本とか 借ります。 わたくしもついでに借りた本を読んでしまうことが多い。
- ディヴィスとブラウンの「スーパーストリング」 (紀伊国屋書店)を読む。当時の非常に興奮した雰囲気を思い出す。
- タモリの「新哲学大王」とかいう番組が始まったが、これに出演している 吉田夏彦先生は、私の仲人です。妻はテレビを見ながら妙にそわそわして おりました。わたくしも、自分の撮ったビデオをテレビに映して 見ているような変な気持でした。
- R1は4月14日から幼稚園に通っています。今の所、幼稚園に行くのは 楽しいようだ。めでたい。R2は、いつも大抵機嫌がいい。特に風呂が 大好きで、 お風呂だぞーと言って服を脱がすと、きゃあきゃあと言って 喜ぶ。単にはだかになるのが好きだという話もある。
- ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」 を読み終える。大変面白かったので、2日で読んでしまった。
- The moon is a harsh mistress. 「月は無慈悲な夜の女王」というのは すばらしい誤訳だ。実際私はこの素晴らしい響きに魅せられて、 この本を買って読んでしまった。
- 最近SFしている私は、SFの古典「夏への扉」 も読んでしまいました。
- ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」 も読みました。これはそれと前後して「JM」という映画を見たので、 なかなか良かった。
- カート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」 を読みました。むかーし呼んだ「プレーヤーピアノ」以来です。